「愛の奴隷」について
ニキータ・ミハルコフ


 あの時代には何か本源的なものがある。それは過去と現在の境界にあるゾーンと思、われる。この時代には政治や経済や芸術に、新しい思想が急激に芽吹いて、それはいまも実行されつづけている。
 さらにもう一つ、芸術家にとって非常に興味深い境界ゾーンがある。その領域では現実の世界と芸術世界が相互に作用しあっているのだ。そこでは真実の事件や本当の感情が芸術家に創造のファンタジーを呼び覚ましつつ、芸術的形象へと変わっていく。
 そうした変貌は各々、唯一のものである。あらかじめ正確に、創造の秘密の領域にコースを拓り開いておくことはできない。それゆえに芸術家は、この魔法の国へ通ずるルートを見失わないように、丁寧に芸術体験の一片一片を分析するのである。
 この映画の現実の世界は1918年のロシアである。階級斗争が尖鋭な形を取っていた頃である。当時、ブルジョア映画はほとんど見世もの的な性格を呈していた。映画は廉価な楽しみを売っているのであり、他のすべての企業がそうであるように、ここでも重要なのは、いかに稼ぐかであった。だが少くとも、われわれはこの映画の主人公を描くにあたって、真に映画を愛している人々を、その創造活動に当時の雰囲気がある程度反映している、むしろ、反映せざるを得なかった芸術家たちを示したかった。
 無声映画そのものにもまた、境界ゾーンはあった。そこには不思議な変形が起りつつあった。娯楽工場から生み出される映画が映画武器へと変化していたのだ。われわれの映画ではその転化がボルシェヴィキのカメラマン、ポトツキーが生命がけで白衛軍の野蛮な行為を記録映画に撮影するところで起っている。
(中略)
 わたしは純粋に人間的に自分を興奮させるような問題をその根底に抱えていない仕事には夢中にはなれない。「愛の奴隷」におけるわたしの主人公たちの問題は−−それは、わたし個人の問題でもある。なかでも重要なのは現実世界とそれに対するわれわれの理解との相関関係である。われわれは誰でも、うわべを現実と取り違えることを防ぎ得ないし、誰も誤りを防ぎようはない。われわれは崇高に見えながら、実際には恥ずべき行為をすることもできるし、偶然のディテールを集めた思弁的なモンタージュを、われわれのファンタジーの産物と偽ることもできる。だが、想像する行為は現実の舞台でのみ、可能なのだ……。それ故に、芸術家は生涯、移り変る世界を鋭く認識しなければならないのである。さもなくば、かれはおそかれはやかれ、自分の知識の奴隷となるであろう。
("エクラン"1976年7号より抄訳)

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