「祖国大戦争」日本公開時(1966)のプレスシート(NCC製作)より転載

☆解 説
 世界史上最大の戦争であった第二次大戦はアドルフ・ヒットラーの世界征覇の夢から起ったが、彼の東方政策の犠牲となって莫大な損害を蒙むったのは、 一九一七年の十月革命以来二十四年を経て漸く社会主義建設の基礎を固めたソ連邦であった。スラブ人を奴隷化することに全力を注いだヒットラーのナチ・ドイツ軍に対し、挙国一致して防衛に当り、遂に徹底的な反撃を加えてナチを潰減させたこの戦争をソビェトの人々は大祖国戦争と呼んでいる。
 この戦争の記録撮影にはソ連の従軍カメラマン ・二五六名のうち四〇名が戦死したといわれるが、彼らの撮影したぼう大な量のフイルムと、ドイツ、英、仏、 ハンガリー、チェコ等のフイルム・ライブラリーに保存された貴重な資料から、ソ連記録映画の第一人者として知られるロマン・カルメン監督の手により整理編集され、祖国大戦争の決定的記録映画として製作されたのが本映画である。
 映画では一九三三年ナチ党の政権奪取から、 一九三八年のミュンヘン協定によるチェコスロバギア進駐とズデーテン地方の割譲、 ついで一九三九年のポーランドに対する電撃戦によって英仏との間に火蓋を切るに到った経過が示されるが、 一九四一年六月二十二日を期してヒットラーの指示による「バルバロス」作戦が開始され、当時東京に在ったスパイ、ゾルゲの正確な情報をも無視し独ソ不可侵条約に頼って防備が手薄になっていたソ連への攻撃となったのである。
 その朝ドイツ軍は東プロシヤ(現在ポーランド領)、ポーランド、チェコスロバギア、ルーマニア及びフインランドの国境線を突破してドイツ軍は侵入、わずか二三週間で首都モスクワを占領しソ連を屈服させる計画であったが、モスクワ南西三五〇キロの地点スモレンスクを中心とした防衛線に阻まれたドイツ軍は、ソ連軍の二倍の兵力を有しながら七月中旬まで足ぶみをさせられる結果となった。これをスモレンスクの戦斗と呼ぶが、この戦斗の初期にソ連軍は新兵器「カチューシヤ」と称するロケット砲を使用するとともに、強力なパルチザン部隊の活動によって敵に大きな脅成を与えた。
 しかしスモレンスクを陥落させたドイツ軍は、中央軍団をモスクワに向け、九月下旬から新たな「台風」作戦による戦斗が始まった。十月未にはモスクワまで七〇キロの地点にまで達し、首都の情勢は重大化したが、十一月七日第二十四回革命記念祭典は例年の通り催され、雪に覆われたレーニン廟の前で兵士たちは祖国の勝利を誓ったのである。そして既に相当な損害を受けていたこの戦線のドイツ寧は十二月初旬から始まったソ連軍の反攻により、 一八一二年ナポレオンの軍隊が敗走したと同じ運命をたどることになった。
 その年十二月八日には日本が真珠湾を奇襲し、戦火は太平洋地域にも拡がったが、ソ連戦線に全兵力を投入していたヒットラーは、 一九四二年北アフリカ戦線で英軍と激斗を交えていたロンメル将軍を救援することもできなかった。
 一方レニングラード戦線では史上かってない長期の包囲戦が展開されていた。この戦斗はソ連にとってはスターリングラードの戦斗とともに最も苦しい戦いであった。
 孤立したレニングラードでは市民も兵士も次第につのる飢餓に苦しめられた。九百日にわたる包囲により市民六十五万の生命が失われるという大きな犠性を払いながらも、レニングラードは遂に屈しなかった。このような苦しい状況の下で資材の補給も途絶えたにもかかわらず、市民は武器弾薬の生産を続け、かつ戦かったのである。 一九四二年四三年にかけて敵は包囲の環を縮めることができなかった。 一九四四年を迎えて、増強された
ソ連軍は百二十四万の大兵力を以て反撃を開始しドイツ軍の包囲は破られた。 一月二十日ノブゴロドを奪還したソ連軍は完全な勝利のイエシアチブをとることができた。
 スターリングラードの戦斗は、前半は市街戦の典型といわれ、後半でのドイツ軍分断包囲作戦は規模に於ても戦術上から見ても歴史に残る天才的な戦術と称せられたものであった。モスタワ攻略に失敗したドイツ軍は南部戦線であるボルガ河流域の重要拠点スターリングラードを目標に、バウリュス大将指揮による精鋭を投入し一九四一年七月からスターリングラードの戦斗が始まった。ソ連軍は十月まで死斗を続け、白兵戦は一つの建物の一室ごとにくり返され、市街は文字通り血みどろの戦場と化し、踏みとどまったソ連軍はボルガ河の岸まで追いつめられながらも敵に莫大な損害を与えた。しかし十一月十九日から開始されたソ連軍の大規模な反撃によってドイツ軍は外劃から分断され、降伏よりも死を選んだドイツ軍は百五十万の死傷者を出して翌年二月には潰減してしまった。
 一九四四年六月六日、第二戦線結成による英米連合軍のノルマンディ上陸作戦とともにパリは武装した市民の蜂起により解放された。冬に入ってアルデンヌ地区でドイツ寧最後の大反撃「バルジ」作戦によって連合軍は危機を迎えたが、ドイツ軍は急追するソ連軍に備えるため共力を東部に移動させ、運合軍は危機を脱した。
 すでにオデッサ、セバストポリ等の激戦でクリミヤの戦線はソ連軍の勝利に終っていたが、英首相チーャチル、アメリカ大統領ルーズベルト、ソ連閣僚会議議長スターリンはクリミヤ半島のヤルタで会談を行ない、対日協同作戦を含む連合作戦計画を決定、世界の平和と安全のため国際連合の設立を決議した。
 ベルリン攻撃は一九四五年四月中旬から作戦が開始され、エルベ河の岸でソ連軍とアメリカ軍の劇的な握手があったが、ソ連軍は第一、第二白ロシヤ戦線軍と第一ウクライナ戦線軍を以て最後的攻撃を行ない、五月一日にベルリンの国会議事堂を占領した。

「祖国大戦争」日本公開時(1966)のプレスシート(NCC製作)より転載
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