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わたしのチェーホフ
ニキータ・ミハルコフ 


 人それぞれに自分のチェーホフを持っています。しかも、その人が生きた時代によって自分のチェーホフ、つまり1955年のチェーホフとか1977年のチェーホフがあるといえましよう。だからわたしたちが作った映画が、ゆるぎなく正しい、唯一のチェーホフの解釈だなどとは考えておりません。わたしたちは、ただ、今の時代における、自分なりのチェーホフ感をできるだけ確実に伝えようと努力したにすぎません。かれの文学をめぐる一般的問題については、わたしは文学者ではないので、何等かの結論を出すことなどできようはありません。とはいえ、チェーホフは黄昏の歌い手ではないといったような周知の事実を、もしわたしが蒸し返すとしても、それはうまくいくとは思いません。しかしながら、映画『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』を製作するにあたっては、この真実は、わたしたちにとって、やはりゆるぎないものでした。しかも、チェーホフ自身、短篇小説「大学生」は、かれの著作の中でも優れた作品と考えています。二頁半の短いものですが、湧いてくる希望の実感には全く素晴らしいものがあります。
 チェーホフ作品の一般的な特質ですが、この実感は、話が全部終ったあとに、やっと湧いてくるのです。話の中では特別なことは何も起りません。ずうと読み続けて最後の言葉を読み終えた時、突如として総ての出来事の重さや深みが感じられてくるのです。
 たとえばドストエフスキーを取り上げてみましょうか。どの作品でも、任意の三頁をひもとけば、そこには必ず重苦しさや主題の動き、激しい日葉があります。そしてすべてが一切、とても明白になってきます。男が老婆を殺した。それによって、複雑な関係や苦悩が展開するのです。ところがチェーホフの作品は、どの三頁を取って読んでみても、全く違っています。たとえば「曠野」をみると、描写は見事なもので、言葉も綺麗です。ここでは重大なことなど何も起らないように思えます。少年は曠野を歩みつづけ、男たちは魚を釣り、雷雨がまるで黄燐マッチをすったように天を走り抜けるが、大人たちはたいして恐れもしない……。そして実際、最後まで何も特別なことは起らないのです。だが、少年エゴールシカのそれまで生きて来た生活は、これで終って、かれはいま、永久にそれと別れようとしているのです。その生活の非常な重さと完結したという実感は、全部読み終った時に、生活の真実を洞察したものとなって湧き上ってきます。
 読み終った後も続くチェーホフの小説の不思議な力を、わたしはスクリーンに伝えたかったのです。チェーホフの戯曲の登場人物たちのドラマをドラマチックな出来事からではなく、特別重大ではないが、やがては生活の実相に結集していくような出来事が次々と起ってくるなかで構成しようと意図しました。きわだった特別な事件で観る人に衝撃を与えるようなことをせず、ごく普通のありふれた行為のなかに結果として事態の重さとか真実性を感じさせるような、豊かな人格や深い関係を見きわめるようにしたかったのです。それはトンネルを通過するようなものです。列車がトンネルに入ると暗くて何も見えない。そして通り抜けて出てしまうと、トンネルの出口は後ろの方に遠ざかって、次第に小さな穴となり、ついには視界から消えてしまう。その代り眼前には広い大地と空が、はっきりと見えてくるのです。わたしたちは、人生の立体音響や大きさが映画を見ている最中ではなく、見終った時に感じられるような映画を撮りたかったのです。そのためにわれわれは、観客が話の筋に従って気楽に見て、自ずとその中で面白いと思われたところを自由に選べるようにし、そのあとで重要な点が集約して洗い出されて、観客は映画を見終えた時には、フィナーレに至る筋の運びを最初から思い起せるというようにしたいと考えました。これがわたしたちの狙いだったのです。
ニキータ・ミハルコフ著「わたしのチェーホフ」
(モスフイルム[掲載)より抄訳
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