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「クロイツェル・ソナタ」パンフレット(1989年11月11日発行)より転載

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 ……早春の野を走る夜汽車。既に車中の旅
は二昼夜を越えている。始発駅から乗り合わ
せているのは4人しかいない。疲れた表情の
年配の婦人と、その連れでいかにも身の廻り
を新調したばかりという感じの弁護士、それ
に押し黙って落ち着きのない眼差しをした中
年の紳士と、この紳士の相客となる男である。
年配の婦人と弁護士に、途中で乗り込んでき
た老商人も加わって、当世の結婚観が話題と
なり、車中はひとしきり話がはずんだが、そ
こで突然、寡黙だった中年の男が結婚こそ欺
瞞にすぎぬと自説を主張したので、座はしら
けてしまう。この男こそ妻殺しの犯人、モスク
ワの上流貴族で郡貴族団長を勤めたこともあ
るワシーリー・ポズドヌイシェフであり、いま
は刑期を終え、余生を過ごすべく自分の領地
のある南ロシアの小村に向かっているところ
であった。そして孤独な旅を続けていたポズ
ドヌイシェフは夜っぴて、向いあって座った
相客に、その波乱の半生をもの語るのである。
  当時のロシアの上流社会のほとんどの
男たちがそうであったように、独身時代のポ
ズドヌイシェフも放蕩に明け暮れる毎日だっ
た。大学生の兄やその友人たちに連れられて
娼家通いを始めたのは数え年の16歳の頃であ
る。むしろ、そうした生活を青春の証として
謳歌していたのだ。しかし一方で、幸福で高
潔な結婚生活を過ごすためにと、若い娘たち
には清純さを求めつづけていた。そんな彼が
30歳を越えて結婚相手に選んだリーザは、没
落した地主の娘だが、ピアノや歌の素養もあ
る、愛くるしい女性だった。ボート遊びの後、
月の光に映し出されたリーザの姿に興奮を覚
えた彼は、翌日にもプロポーズしたのである。
 だが、二人のいさかいはヨーロッパヘの新
婚旅行の最中にも始まったのである。はや、
この時すでに彼らには越えられぬ溝があった
のだ。それでも夫婦には次々と5人の子供が
生まれた。ポズドヌイシェフはよそ目には、
優しい夫であり良き父親に見えた。
 そしてポズドヌイシェフは新婚数週間で味
わった深い悔恨を胸の奥に押し殺したまま、
リーザにしても子供たちの世話や家庭生活の
苦渋に倦み疲れたまま、一家は田舎の領地か
らモスクワへ移り住んだのである。彼らは都
会生活の慌ただしさで気を紛らす日々が続い
た。そんな折に、ポズドヌイシェフの旧友で
パリ仕込みの伊達男、バイオリニストのトル
ハチェフスキーが、演奏にかこつけてポズド
ヌイシェフの邸に出入りするようになって、
30代の女盛りを迎えていたリーザの心が揺れ
動くようになった。
 そして或る夜、邸に客を招いて開かれた音
楽会。トルハチェフスキーとリーザがデュエ
ットで奏でる、ベートーヴェンの"クロイツ
ェル・ソナタ"  その華麗な音色は夫の胸
に妻への疑惑を刻みつけた。二日後、郡の貴
族総会に出席するため旅先にあったポズドヌ
イシェフは、妻から手紙を受け取る。家族の
消息などを伝えたその手紙にはトルハチェフ
スキーが約束の楽譜を届けてきたとだけあっ
たが、既に嫉妬の念にさいなまれていたポズ
ドヌイシェフは、その夜、不安を抑え難く、
急ぎモスクワに引き返した。
 そして、夜ふけの我が家で仲睦まじくして
いるリーザとトルハチェフスキーの姿を目の
あたりにして、ポズドヌイシェフは逆上した。
彼は、刃物を手にリーザに襲いかかる。彼女
の脇腹に食い込む刃先 −一瞬、人殺しを犯
したという戦標が体を走った。が、息たえだ
えの妻を前にした時、ポズドヌイシェフは初
めて、嫉妬や自尊心のために、虚偽で塗り固
めてきたこれまでの生活が無意味なことに思
い至った。彼は"妻のうちに人間を見る"こ
とができたのである。彼はリーザに許しを乞
うたが……
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