〈かいせつ〉
 セルゲイ・ミハイロヴィチーエイゼンシュテインは、
1925年、映画史上に不滅の「戦艦ポチョムキン」を
発表、つづけて「十月」(27)、「全線」(29)を撮り、その
輝かしい独創的な才能で、世界的名声を博していたが、
29年8月、グリゴリー・アレクサンドロフ、エドゥアル
ド・ティッセとともに、当時誕生したばかりのトーキー
映画の実情調査とハリウッドで映画製作を行うために、
ヨーロッパ経由、アメリカへ向った。ハリウッドではパ
ラマウント社との間にシオドア・ドライザー原作「ア
メリカの悲劇」の映画化が取り決められた。シナリオは
完成した。それがアメリカ社会の矛盾をあまりにも鋭く
えぐりだしていたので、。ハラマウント社から拒絶され、
かわって、エイゼンシュテインがかねてから憧憬を抱い
ていたメキシコについての映画を撮ることになった。
 メキシコでの仕事は、のちにこの映画がたどった不幸
な運命の仕かけ人ともなる、アメリカの作家アプトン・
シンクレアらが組織した「エイゼンシュテインのメキシ
コ映画トラスト」の資金援助で開始された。30年12月、
一行は国境を越え、メキシコに入る。そしてホテルで旅
装をとくひまもなく、官憲に拘留されたが、アメリカ滞
在中に親交を結んだチャールズ・チャップリンらの抗議
で釈放される。外交関係もない異国で幾多の障害に出会
ったが、幾世代もの歴史の断面をとどめて、異なる社会
制度が共存しているメキシコに魅せられたエイゼンシュ
テインは、この仕事に精力的に取り組んだ。メキシコ画
派の旗手たち−−ディェゴ・リヴェラ、クレメンテ・オ
ロスコ、ダビット・シケイロスらもソビエトの映画人た
ちを助けた。
 やがて、「メキシコ万歳」のシナリオ第一稿(メキシコ
版)が完成する。プロローグとエピローグにはさまれた
四話−−「サンドゥンガ」、「竜舌蘭」(マゲイ)、「お祭り」
「ソルダデーラ」で構成され、一貫した筋はないが、メキ
シコの民衆への賛歌にみちた、民衆の歴史が描かれてい
た。シナリオはメキシコ政府の検閲を意識した、不完全
なものだったが、かれらはこのシナリオをよりどころに、
予定をはるかにこえる17ヶ月にわたって、およそ7万メ
ートルのフィルムを撮影した。
 だが32年1月、映画は一部を未撮影のまま、資金不足と
映画製作をめぐるシンクレアとの意見のくい違いから、
撮影が打切られた。折からソビエト本国からも帰国を促
されていた一行は、アメリカが入国査証を発給しなかっ
たため、ハリウッドでの編集作業をはたせぬまま帰国の
途につく。そして、この時シンクレア側と交わした約束
にもかかわらず、現像された撮影ずみのネガはハリウッ
ドからモスクワヘは送られてこなかった。「メキシコ万
歳」は巨匠の手で編集されることもなく、幻の作品とな
ってしまったのである。
 その後、出資者としてこのフィルム素材の権利を主張
するシンクレアは、まず「竜舌蘭」をもとに「メキシコ
の嵐」(33)を製作したほか、さらにフィルムを切り売り
したため、イギリスのエイゼンシュテイン研究家マリー・
シートンによる「タイム・イン・ザ・サン」(39)や、何本かの
短篇映画、他の映画へのカット使用まで現われた。それらい
ずれの作品もエイゼンシュテインの構想とはかけ離れて
いた。
 そして、「モンタージュはモスクワでおこなう!」(32
年5月9日付"夕刊モスクワ")というエイゼンシュテイ
ンの願いは多くの映画人の悲願となった。長い交渉のす
え、72年にニューヨーク近代美術館からモスクワ国立フ
ィルムフォンドに返還されたネガは、いよいよ、当時
のスタッフで、いまはただひとり健在であるグリゴリー
・アレクサンドロフ監督が中心になって編集が始められ
た。エイゼンシュテインがメキシコから帰国後、モスク
ワでの編集にそなえて準備したシナリオ(モスクワ版)や、
さらに死の前年、47年にシナリオに書きたしたあとがき
など、そのほか多くの資料を駆使して、ついに79年、「メ
キシコ万歳」は完成した。エイゼンシュテインの「メキ
シコ万歳」の構想のすべてはここに、実に半世紀をへて
初めて鮮烈によみがえったのである。
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