[かいせつ] 日本で最初に公開されたソビエト映画である。
原作は、アレクサンドル・プーシキンの短編集「ペールキン物語」(1831)の1篇『駅長』だが、思いきった脚色が行われ、この古典を知る者には意外な結末となっている。
主演のイワン・モスクヴィンは、当時のモスクワ芸術座を代表する名優で、共同監督も務めている。美しい娘ドーニャを演じるヴェーラ・マリノフスカヤは、"メジュラポム"スタジオのスターだった。脚本のフョードル・オツェプは、この後、「生ける屍」(1929)などで世界的な監督となった。また、共同監督のユーリー・ジェリャブジュスキーは、「ディナ・ザヅウ」(1926)を監督している。
この作品は、1920年代後半のソビエト映画としては、「戦艦ポチョムキン」の36ヶ国を上回る37ヶ国に輸出されるほどの大ヒット作となった。ソビエトで公開時は"КОЛЛЕЖСКИЙ РЕГИСТРАТОР"(「14等官」)の題名で公開されたが、世界配給にあたっては、原作の"Станционный смотритель"(「駅長」)が、この映画の題名として使用された。
また、この映画に触発されたのか、『駅長』を原作としながら同様に脚色された作品、「白夜の果てに」(1939年オーストリア映画、グスタフ・ウツィツキ監督)、「愛の終着駅」(1946年フィンランド映画、テウヴォ・トゥリオ監督)などが製作されている。オリジナルはサイレントだが、1949年にナレーションを加えたサウンド版が製作された。 |
[あらすじ] 馬車が主要な交通機関だった帝政ロシア時代、馬車が立ち寄って馬を交換する駅が、広大なロシア全土に点在していた。駅は、ロシアの行政機構における末端の出先機関でもあり、駅長は役人としては最下級の14等官という肩書を持っていた。
セミーョン・ヴィリンは、スモレンスクからペテルブルグに通じる街道にあるうら寂しい田舎の駅長だった。セミーョンは、妻に先立たれ、娘のドーニャと暮らしていた。彼にとって、娘は唯一人の身内であり話相手であり、魂であり神であり、そして全てであった。
ある時、若い貴族の騎兵大尉ミンスキーが、ペテルブルグに帰る途中、馬を交換するため、この駅に立ち寄った。ミンスキーは、ドーニャの美しさを見初め、"病気"だと偽って駅長の家に滞在することにした。彼は病気を装いながらも、ドーニャに気に入られるように努めた。やがて、ふたりはうちとけ、セミーョンもミンスキーに気を許すようになった。こうなると、都会の貴族が、世間知らず田舎娘を口説くことは難しくはない。
ミンスキーが、首都へと出発する日がやって来た。ドーニャは、ミンスキーを途中まで見送ると言って、馬車に同乗した。そして、そのまま娘は、父の許に帰って来ることはなかった。
愛する娘を求めて、セミーョンは、雪の中をとぼとぼと歩いてペテルブルグへ向かった。ようやくミンスキーの家を見つけたものの、貧しい老人のために貴族の邸宅の扉は開けて貰えない。「旦那さま…どうぞお慈悲でございます。」セミーョンは、どんな屈辱受けても娘に会わせて欲しいと願ったが、すべては徒労に終わってしまった。
セミーョンは、再び故郷に戻った。だが、もう以前のセミーョンではなかった。精神に異常をきたしたのか、愛する娘の姿を追ってさ迷うばかりだった。大吹雪の夜、ドーニャのまぼろしを追って、セミーョンは悲しい最期を遂げた。
一方、享楽主義者に過ぎなかったミンスキーは、ドーニャの素朴さにも飽きてしまい、彼女を棄てた。都会でひとりきりになったドーニャは、懐かしい父の元へ帰ろうとするが… |
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[スタジオ/製作年] メジュラポム・ルーシ 1925年製作 |
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[スタッフ] 原作:アレクサンドル・プーシキン
監督:ユーリー・ジェリャブジュスキー
イワン・モスクヴィン
脚本:フョードル・オツェプ
ワレンチン・ツルキン
撮影:ユーリー・ジェリャブジュスキー
エフゲニー・アレクセーエフ |
[キャスト] セミーョン:イワン・モスクヴィン
ドーニャ:ヴェーラ・マリノフスカヤ
ミンスキー:ボリース・タマリン
将軍:N・F・カスタロンスキー
医者:ニコライ・アレクサンドロヴィチ |
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[ジャンル] 長編劇映画
[サイズ] 35mm / 黒白 / 無声 1949年サウンド版
[上映時間] 1時間7分(75分?)
[日本公開年・配給] 1927/7/29 駐日ソ連通商代表部(武蔵野館封切) |