●かいせつ 1932年、エイゼンシュテインは「メキシコ万歳」を未完のままアメリカより帰国。以後、彼は国立映画大学監督科教授を務めながら、35年「べージン草原」の撮影に入った。しかし当時のソビエト映画界は社会主義リアリズム路線が採択され、彼のモンタージュ論や20年代の作品も批判にさらされて、37年には「べージン草原」の製作中止を余儀なくされた。
「全線」から9年たった38年、エイゼンシュテインは、外敵を撃破して祖国を守った、13世紀の民族的英雄アレクサンドル・ネフスキーを描いて映画界にカムバックする。当時はファシズムの脅威が高まるなか、愛国心を鼓舞する映画が求められた時代でもあった。 この映画はエイゼンシュテインの初めてのトーキー映画で、作曲家セルゲイ・プロコーフィェフの協力を得て、自らの「視聴覚のモンタージュ」を実践したが、なかでもチュード湖上の"氷上の戦い"のシーンはその典型的な例として有名である。そして、この作品では、叙事詩的構成が古代ロシヤの英雄叙事詩や民話の伝統と潭然となっている。さらに、全面的に俳優が出演しているのもこれまでの作品とちがっている。
主人公のネフスキー役を演じたニコライ・チェルカーソフは後に同監督の「イワン雷帝」にも主演することになる。
この映画の公開の翌年、ドイツと不可侵条約が締結されたため、ナチ・ドイツの侵略性と破滅を予見したこの映画は、一時上映中止となり、41年にドイツの侵略が始まると、再公開された。 |
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●あらすじ] 1932年、エイゼンシュテインは「メキシコ万歳」を未完のままアメリカより帰国。以後、彼は国立映画大学監督科教授を務めながら、35年「べージン草原」の撮影に入った。しかし当時のソビエト映画界は社会主義リアリズム路線が採択され、彼のモンタージュ論や20年代の作品も批判にさらされて、37年には「べージン草原」の製作中止を余儀なくされた。
「全線」から9年たった38年、エイゼンシュテインは、外敵を撃破して祖国を守った、13世紀の民族的英雄アレクサンドル・ネフスキーを描いて映画界にカムバックする。当時はファシズムの脅威が高まるなか、愛国心を鼓舞する映画が求められた時代でもあった。 この映画はエイゼンシュテインの初めてのトーキー映画で、作曲家セルゲイ・プロコーフィェフの協力を得て、自らの「視聴覚のモンタージュ」を実践したが、なかでもチュード湖上の"氷上の戦い"のシーンはその典型的な例として有名である。そして、この作品では、叙事詩的構成が古代ロシヤの英雄叙事詩や民話の伝統と潭然となっている。さらに、全面的に俳優が出演しているのもこれまでの作品とちがっている。
主人公のネフスキー役を演じたニコライ・チェルカーソフは後に同監督の「イワン雷帝」にも主演することになる。
この映画の公開の翌年、ドイツと不可侵条約が締結されたため、ナチ・ドイツの侵略性と破滅を予見したこの映画は、一時上映中止となり、41年にドイツの侵略が始まると、再公開された。
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