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レオニード・オシポヴィチ・ウチョーソ
フ(訳註──1895年、オデッサ生れ。ソビ
エト最初のジャズオーケストラミ"テア−ジ
ャズ"の創設者でソリスト)は冗談とは言
え、まるでジャズがオデッサのマールイ・
アルナッキー街に生まれ、のちにアメリカ
のニグロの鋭敏な耳に伝わちたかのように
断言していた。だが冗談にもそれなりの理
由はある。事実、革命前のオデッサでは、
結婚式などで糧を得ていた、殆んど譜面な
ど読めない、貧しい楽士たちが即興でメロ
ディを演奏し、自由に変奏を行っていた。
それは評価されていなかったが、疑いもな
く洗練されていた。即興の文化はレオニー
ド・オシボヴィチの血にも流れていた。か
れはその文化を受け継いだのだ。若い日に
は──本能的に、ただ魂の叫びに従う。長
じては──多種多様だが、互いに浸透し合
っているメロデイの伝統を貫く永遠の運動
のフォームに思い致る。そしていつの時代
も──貧しい生れであるがゆえに卑屈にな
ることはなかった。ここに、音楽的な感覚
に "低い" と "高い"、 "軽い" と "重い"、
"自分" と "他者" の境界を許さない、巧
まぬかれの至芸があったのである。ジャズ
は借りものの音楽と言われた時、かれがな
ぜ慣激し、悲嘆にくれたかを説明するには
およばないだろう。
"ジャズはどこで生れたか" と言う、ウ
チョーソフのおどけたナンバーに、注意深
い人は常に、アーテイストの真剣で切実な
情熱を、かれの魂の集中を、かれの運命の |
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ライトモチーフを認めるだろうが、この歌
はおそらく、脚本家のアレクサンドル・ボ
ロジャンスキーと監督カレン・シャフナザ
ーロフにも、ソビエトジャズのパイオニア
を描く、かれらの映画の基調を示唆したこ
とだろう。かれらにとって重要なことは、
かつてウチョーソフにとってそうであった
ように、ジヤズがどこで生まれ、実際はど
んな風であったかではなくて、ジャズが何
の理由で生まれ、どんなエネルギーを解放
することができるかである。
映画は誰かの自伝を直接、違想させはし
ない。或る歴史のあらゆる複雑さを包みこ
んでいるのでもない。だいたい、歴史とか
エポックには幾らかの虚飾はつきものであ
る。だが、それは事実を回避しはしない。
おそらく、テーマに対するファンタジーな
のである。ファンタジーは演劇化された現
実のようなものである。
「ジャズメン」は立派な、誠実で、"チャー
ミング"な仕事である。これは「サーカス」
(36)や「愉快な違中」(34)(訳注──いずれ
もグリゴリー・アレクサンドロフ監督作品)
を想い起させる。全体として、この新しい
作品にはこれら二つの作品に特徴的なパラ
ドックスが欠けているかもしれないが、対
照してみることは、ウチョーソフのジャズ
感と同様に正しく、必要なことなのである。
なぜならばここには伝統を復活させ、受け
継ごうとする試みがあるからである。
(雑誌"エクラン"より抄訳)
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