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「ストーカー」(1981年10月31日発行)より転載
映画と"カタルシス" アンドレイ・タルコフスキー
 14   わたしにとって映画は精神的な仕事であっ
て、プロフェッショナルな仕事ではないのです。
わたしはテーマとかジヤンルとかフォームな
どというような概念に嵌らないような、何か
非常に真剣な、責任をともなうものとして芸
術を観つづけねばなりません。
 芸術が存在するのは現実を反映しているか
らだけではないのです。芸術はさらに、生活
を目前にして人間を武装させ、かれに生活に
立ち向かう力を与えなければなりません……
芸術は作品のなかで提起された問題に必らず
しも答えを準備する必要はないですし、長篇
小説「カラマーゾフの兄弟」のなかででも、
ドストエフスキーは自ら提起した問題に答を
出してはいません。
 だがきちっとした答えを出さないにせよ、
芸術はわれわれに信念を残します。"カラマー
ゾフ、万歳!"とドストエフスキーは長篇の
終りで云います。それはその時、われわれが
主人公とともにかれのすべての苦悩や堕落や
誤りを体験し、主人公に愛を、さらにはかれ
の気高さや自己に対する誠実さやかれが耐え
忍んだ悩みに対しても深い感謝の念を抱くま
でになっているからです。主人公もわれわれ
の一人となったのです。われわれはかれへの
信頼を増します。
 芸術はわれわれにこうした信念を与え、わ
れわれを自尊心で満たします。芸術は人間の
血にも、社会の血にも抵抗力という或る試薬
を、つまり屈服しない力を注射するのです。
人間には光明が必要です。芸術はその光明を、
未来への確信を、将来への展望を人々に与え
ます。
 天賦の才は将来の展望や光明と結合してい
るものと思います。もし将来の展望がなけれ
ば、ドラマチズムもないし、それからの出口
もないわけです……人間はドラマチックで悲
劇的なシチュエーションを、つまり絶望を経
てこそ、平穏と歓喜と希望への活路を知らさ
れます。
 古代ギリシャ人ははるか昔に、こうしたこ
とすべてを理解して、最もデモクラチックな
演劇を生み出しました。かれらが“カタルシ
ス”という概念に――わたしにとっても非常
に重要な概念なのですが――到達したことは
驚嘆すべきことです。“同情と恐怖による浄
化”――アリストテレスは“カタルシス”の
概念をこう規定しました。これは何世紀にも
わたって、非常にさまざまな哲学の体系や論
理の視点から、解釈され、論証されてきました。
しかしわたしにとっては“カタルシス”とは、
純粋に情緒的で、論理的説明や教訓には支配
されない状態です。それはつまり、平穏と、
幸福と、将来の展望への活路を共に体験する
ことであるのです。それは生きる力を発見す
るために、また自分自身と、さらにおのがう
ちに新たな精神の源泉を見出す可能性とを信
じるために行う告向の独特の方法でもあるの
です(そしてこのことは告白の目的でもあり
ます)。芸術は人間に“カタルシス”を、つま
り、他の人物―主人公を追体験することによ
る浄化の可能性を与えてくれます。かれとと
もに悲劇的シチュエーションを体験し、おの
れのうちにもあるそれに耐える時、人間は自
分を大きなものに感じ、芸術家と同じ水準に
立つことができるのです。まあ、考えてもみ
て下さい。カラマーゾフの兄弟――聖職に仕
える一人、殺人の廉で有罪を宣告された、も
う一人のミーチカ、気が狂った三人目、そし
てかれらの父親フョードル・パヴロヴィチと
が、要するに“カラマーゾフ、万歳!”なの
です。これこそ“カタルシス”です。カラマ
ーゾフ家の人々が何らかの存在価値があった
のだから、われわれは自信を持って然るべき
でしょう。
 わたしは映画芸術のために“カタルシス”
のイデーを抱き続けることが重要と思います。
映画にとって歴史が人類の前に提示している
諸問題を解決する時が熟しているのです。

(N・ゾルカヤがA・タルコフスキーと行っ
たインタビユーより引用―編集部)

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