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「ストーカー」(1981年10月31日発行)より転載
スタッフ・キャストの横顔
アリーサ・フレインドリフ
АЛИСА ФРЕЙНДЛИХ
父は有名な俳優プルーノ・フレイン
ドリフ。レニングラード演劇大学在
学中の1957年からコミッサルジェフ
スカヤ劇場の舞台に立ち、61年以降、
レンソビエト劇場に移って、生れな
がらの舞台役者と評判の活躍ぶり。
 本格的な映画出演は「歯医者の事
件」(65)だが、自らも「長く映画に
片思いをしていた」と嘆くほど、映
画界で人気を博したのはだいぶ遅れ、
「職場のロマン」(77)に主演してか
らである。 ミュージカル「ヴェリ
ー地区のメロディ」(73)、アレク
セイ・アルブーゾフ原作「古風なコ
メディ」(79)をはじめ、おもに歌っ
たり踊ったりの明朗でオプチミスチ
ックな役を演じているが、"ストー
カー"では打って変って微笑だにし
ない。これまでのようなおおげさな
演技は一切せずに、ストーカーの不
可思議な精神世界を理解し、信じよ
うとする女心の真情を吐露しようと
している。
 レン・ソビエト劇場の主任演出家
で俳優でもあるイーゴリ・ウラジー
ミロフの夫人。
アナトリー・ソロニーツィン
АНАТОЛИЙ СОЛОНИЦЫН
 1930年生れ。サラトフ建築技芸学
校出身で工場に就職して後、アマチ
ュア劇団に参加したのが機縁で、俳
優の道に進むことになった。スヴェ
ルドロフスク・ドラマ劇場の附属演
劇学校に学び、ドストエフスキーの
「虐げられし人々」で初舞台を踏む。
 映画デビューはアンドレイ・タル
コフスキー監督の「アンドレイ・ル
プリョフ」(67)。劇団員としてウク
ライナを巡演中に、偶然読んだシナ
リオに魅せられ、モスフィルムに出
向いて自薦。監督の眼にかなって主
演に抜擢され、歴史の苛酷な現実と
の相剋に苦悩する芸術家の良心を見
事に演じ、個性派スターとして国際
的にも名を馳せることになる。
 以後、タルコフスキー監督の一連
の作品に、また、79年夭逝したラリ
ーサ・シェピチコ監督の「処刑の丘」
(77)、アレクサンドル・ザルヒ監督
の「ドストエフスキーの生涯の26日」
(80 ベルリン映画祭男優賞)と話題
作に出演している。
ニコライ・グリニコ
НИКОЛАЙ ГРИНЬКО
 1920年生れ。1962年春、ドニエプ
ル河畔で休暇を楽しんでいたキエフ
の軽演劇の役者ニコライ・グリニコ
に映画出演の声をかけたのはアンド
レイ・タルコフスキー監督である。
以来、「僕の村は戦場だった」の陸軍大
佐、「アンドレイ・ルプリョフ」の聖
像画家、「惑星ツラリス」の父親、「鏡」
の印刷所長と、タルコフスキー映画
には必らず登場している。
 両親の影響を受け、ザボロージェ
の劇場で俳優や監督になるための修
養を受け、のちにキエフに出て9年
間、軽演劇・ミュージカルアンサン
ブルを率いて喜劇やエキセントリッ
クな芝居で活躍し、そのかたわら同
様のジャンルの映画にも出演してい
た。だが歌と踊りが得意でドラマー
を兼ねたこの俳優は、「僕の村は戦場
だった」以後、舞台を捨て、映画に
専念することになる。この20年間、
多彩なジャンルで79本におよぶ映画
に出演したが、なかでも「大いなる
愛」(69・ソ仏合作)のチューホフは
かれの名を国際的にした。
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