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「グリゴーリー・チュフライの世界」(1990年5月25日発行)より転載
グリゴーリー・チュフライの謎
チュフライ監督は語る
ヴィクトル・マチゼンとのインタビューから
12

――“チュフライの謎”があると言っても、
間違いではないと思います。50年代から60
年代にかけての時期に、あなたは多少なり
とも映画に関心がある人なら誰でも知ってい
る「女狙撃兵マリュートカ」(56)、「誓いの休
暇」(59)、「晴れた空」(61)など3本の映画
を次々と監督しました。そしてその後の何十
年間に殆ど同数の、専門家にのみ知られて
いる映画を、撮っておられます。簡単にくくっ
てしまうと3年間に3本の映画と、その後の
30年間に3本と言うことになります。どうか
なさったのですか?――

 こうした質問はこれまで受けたことがあり
ませんが、とにかくお答えいたしましょう。
フルシチョフの雪どけのあとはブレジネフの
朝冷えが来ました。雪どけ期は、わが国のル
ネッサンスの希望が感ぜられたので、その状
況のなかで自由に,“歌いもしました”。でも、
その後は希望はかげり、私はもはや何につい
て歌うべきかわかりませんでした。
 すべてのことを時代のせいにするのは正し
くないでしょう。70年代にも多くの人が映画
を、しかも悪くない映画を撮っています。間
題は時代にだけでなく私自身にもあるのです。
 最近は上意下達の官僚システムの鞭の傷あ
とを自ら進んで見せびらかす人も沢山います。
私は自分をシステムの犠牲者と思いたくはあ
りません。犠牲者などでなく、それとの絶え
まない闘いに明け暮れていました。闘う者は
打撃を与えるだけでなく打撃を受けもします。
それが普通です。
 私の人生は好運に恵まれていました。戦場
でもついていました。三回負傷しながら、無
事に帰還しました。映画界に入ってからも運
が好かったです。初期の作品はどれも、国の
内外で認められ、多数の国際的な賞を得、今
もなお上映されています。あなたが“専門家
にのみ知られている”と指摘した映画にして
も、古びてはいません。例えば、「君たちの
ことは忘れない」は“自宅監禁”が解かれる
や日本人が買付けました。フランスでも大変
好評でした。撮影されたのは1977年なのです。
運命を呪うのは良くないと思います。
 私はまた、20年以上にわたり、映画人同盟
の書記を勤め、ゴスキノの幹事会のメンバー
でした。映画人たちの信頼も私には幸せなこ
とでした。
 私が速く撮影できることは雪どけ期に証明
ずみです。どんな時代のどんな国民の無能な
支配者でも直接であれ間接であれ讃美せねば
ならなくなったら、私は仕事をすることが不
可能ですし、するのもいやです。何が我々を

悩ませ、我々が何に胸を痛めているかでなく
て何が“人民に必要である”かを描いた現代
映画を撮るように要求されたのです。人民に
まさに何が必要であるかは党「中央委員会文
化部が知っていました。
 1965年「おじいさんとおばあさんが住んで
いました」を撮りました。これは反スターリ
ン主義の映画です。ゴスキノで映画は骨抜き
となりました。“ほんのわずかな”重要な数
コマがカットされましたが、この映画を損う
のには、これで充分でした。私は譲歩し、こ
の数コマがなくても映画は成立すると自分に
言い聞かせました。実際、充分成り立っては
いますが、もはや、あの映画ではないんです。
たとえ短縮版であってもこの映画を恥ずかし
いとは思いませんが、やむを得ず妥協を強い
られたという屈辱にいまも苦しめられていま
す。官僚システムは監督に影響を及ぼす入念
に練りあげた方策を考えていました。同意し
なければスタジオの5000人の財布に響くこと
になるのです。スタジオも撮影グループも、
賞与はおろか、報酬も受けられないことにな
ります。
 私とエフィーム・セヴェラと共同で書いた
シナリオ「人々」は、撮影は全く禁ぜられ、
平和至上主義映画の部類に入れられました
(当時は反戦映画は重んじられていなかった
のです)。私は「スターリングラード」を撮
影させてもらえませんでした。映画「記憶」
は軍政治総局長のエピシェフ上級大将に認め
られず、軍での上映は禁ぜられ、まもなく、
映画館のスクリーンから下ろされました。
「君たちのことは忘れない」も同様の運命に
見舞われたのです。またも、前途にエピシェ
フが立ちはだかつたのです。私は、この“不
道徳な”映画に反対し、その禁止を求める、
中央委員会にあてた彼の手紙を読みました。
この映画は戦線で夫と長男を失い、その後召
集された下の息子を戦争から逃れさせようと、
屋根裏に匿い、脱走兵にしてしまった素朴な
母親をめぐる話です。息子は生き残れました
が、母親は息子の心を駄目にし、彼を不幸せ
にしてしまいました。エピシェフ上級大将は
憤慨し、彼は戦時下、軍に脱走兵はいないと
断言しました。彼は“わがソビエ卜の母”の
ためにも立腹しました。“母は”と彼はこう
続けています。“祖国と言う言葉を運想させ
る。母を否定的な面から描くことで、チュフ
ライはわが祖国の名誉を汚した”と。「赤い
星」(*国防省の機関誌)には破壊的な論文
が掲載され、映画に好意的な批評は抹消され、
スタジオでは文化省の委員会が、このような

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