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「グリゴーリー・チュフライの世界」(1990年5月25日発行)より転載
●「女狙撃兵マリュートカ」
●第2回モスクワ国際映画祭で受賞後(1961年)
(右から2人めが新藤兼人監督。「晴れた空」と
「裸の島」がグランプリを分け合つた)
有害な映画の撮影を許可した党組織やスタジ
オ所長シーゾフは何のために検閲したのか、
解明しようとしました。私は、題名を変更す
るよう要求されました。委員会のメンバーの
意見では、最初の題名「典型的でない物語」
は“社会主義リアリズムの基本原則に刃向か
うもの”でした。この映画を救い出そうと考
え、私は「泥沼」と名付けたのです。だが、
これは何の役にも立たず、映画はスクリーン
から下ろされ、海外への輸出禁止リストに加
えられました。
 私はブレジネフ時代は誠実に働くことは不
可能であったことをお伝えするためにお話し
ているのです。嘘をついたり、生半可な真実
を語る仕事はしたくなかったのです。これか
らどう生きていくべきか決断せねばなりませ
んでした。
 そんな折り、私は幸運にもアレクサンドル
・ポズネルという素晴らしい人に出会ったの
です。彼は公正で、何事にも無関心でいられ
ない男で、経済問題に明るかったため、ゴス
キノを追われたのでした。私は彼とともに、
劇映画作りのための、独立採算制の組織を作
ることにしたのです。何人かの法律家、経済
学者、社会学者が私どもの仕事に加わりまし
た。映画創作の実験的スタジオを設立させる
という閣僚会議の決議は1965年に採択され、
翌年からすぐスタジオは仕事を開始しました。
仕事は困難を極めました。我々の車輪に棒を
突っ込む者こそいませんでしたが、軸箱に
こっそり砂を入れて、巧妙に車を動かないよ
うにする者はあとを絶ちませんでした。
―そんな状態でどうやって持ち堪えられた
のですか?――

 当時の私は今より体力も精神力も、自分の
正しさについての確信もありました。そして
何よりも、我々の仕事の結果が全てをもの
語ってくれました。我々が発表した作品のい
くつかをあげてみましょう。「君にとって家
が大切ならば」、「砂漠の白い太陽」、「愛の奴
隷」、「嘆かないで」、「前線から兵士が戻っ
た」、「サンエコフの土地」、「イフン・フシー
リェビッチが職業を変えるとき」等々です。
数字を並べてあなたを煩わせるのは憚られる
のですが、一つだけあげさせてください。こ
れらの作品は、一年間の興行でそれぞれ平均
3200万人の観客を動員しています。これは今
ならばもちろん、当時としても並外れた数字
です。我々の事業は高い利益をもたらし、私
どももその恩恵に浴することができました。
最近の共同組合があげる収入に比べれば、
我々の収入など微々たるものでしたが、それ
でもゴスキノや各スタジオの経済担当者にあ
おられた“世論”は、“儲けているぞ!けし
からん!”と言って憤慨しました。あなたが
たも我々に加わって“儲ければ”いいじゃな
いですか、と私たちは言いました。しかし、
言っている彼ら自身、自分の能力では我々の
ところで儲けることなぞできないことは、百
も承知でした。我々の組織では、才能のある
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