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「グリゴーリー・チュフライの世界」(1990年5月25日発行)より転載
[誓いの体暇]25周年に寄せて
グリゴーリー・チュフライ
22
●「誓いの休暇」
●「誓いの休暇」

 意外に思われるかも郷れませんが、この映
画を作ろうというアイディアは、定例のカン
ヌ映画祭で浮かんだのです。戦場で共に戦っ
た若者たちの勇気と、広い心についての映画
を作りたいという希望はかねてから持っては
いたのですが、ともすれば、自分が経験した
エピソードの羅列になりがちなその種の映画
を、私は、哲学を持った、芸術性の高い作品
にしたかったのです。
 1957年、「女狙撃兵マリュートカ」がソビ
エトを代表する作品として上映されることに
なり、私はカンヌ映画祭に出席しました。そ
こで私は、人々が我々ソビエト人に対して非
常に興味を持っている、ということがわかり
ました。多くの人々にとって、戦争はまだ記
憶に新しいことでありましたし、あのファシ
ズムに対して大勝利をおさめた国民とはどん
な人々なのか、という探るような視線が我々
に向けられたのです。これは、ソビエトの兵
士についての映画を作らなくてはならないと、
私はそこで思ったのです。
 我々がいかに勇敢に戦ったかを描く映画は、
その頃までに既に何本もできていました。私
が語りたかったのは、なぜ、我々が勇敢に
戦ったかということでした。軍人出身の脚本
家で、私と同じことを望んでいたV.エジョ
フとの出会いが、このアリョーシャ・スク
ヴォルツォフの物語を産む発端となったので
す。
 正直言ってスタジオの大方の人々はこの構
想の成功に懐疑的でした。撮影は遅々として
すすまず、また、やっと半分ほど撮り終えた
段階で、先見の明があると自称する人々から、
やれ暗すぎる、テーマが小さすぎるなどとい
う非難の声が聞こえてきました。支給品の石
鹸を兵士が家族に託するなどというシーンは、
軍の権威を失墜させるものだ、と言う人さえ
いました。数々の「有益」な助言もいただき
ました。アリョーシャを将軍か、せめて大佐
という設定にした方が、善行を施しやすいの
ではないか、とか、アリョーシャの死で観客
を悲しませてはいけない、とか、前線の夫を
裏切る妻の話は不要だ、等々。彼らがこのよ
うな助言をしたのは、別に悪意があってのこ
とではありません。ただ、「ためになる良い
映画」ばかりを作ってきた人々にとって、
我々の作品は危険と映ったのです。芸術作品
を絶対的に評価することがいかに危険である
かを私はこの時知りました。
 封切り当初のこの映画の境遇はつつましい
ものでした。上映は小さな映画館に限られま
した。しかし、私どもが予想していた通り、

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