その3
昔、我社は一時期、市の北へ延びる幹線道路"プロスペクト・ミーラ"からちょっと脇へ入ったところに建つホテル・ボルガの一室に事務所を置いていたことがあった。
ある日の夕暮れ時、事務所から泊まっているホテル・ウクライナへ帰る途中でのことだった。タクシーを拾うには先ず大きな通りへ出なくてはならない。そこで、事務所から数分歩いてモスクワ環状道路"サドーヴォエ・カリツォ"へ出て、タクシーはもちろんだが、家路に急ぐ自動車にも手を振って、ヒッチハイクよろしく止まってくれる車を待った。なかには止まって、「どっちだ?」と聞かれ、「ホテル・ウクライナ」と言うと、「方向が違う」とそっけなく走り去る車もあるにはあった。
ところがどうだろう。あの片側3−4車線もある幅広い道の反対側を走り去った救急車が100メートル位先で急きょ左へUターンし(日本とは逆で車は右側通行である)、私が立っているところに寄ってくるではないか。車には運転手のほかに白衣の天使(?)が乗っていた。
「ウクライナ・ホテル」と告げると、何と、快くOKの返事。しかもこれまで走っていた方向とはまるで逆なのにである。更に金額を聞いても、いらないと言う。やはりこれは天使なのか。少し走ると、ピーポーピーポーまで発し、突進するではないか。彼らのサービス精神には驚いたね。でもさすが、ホテルに近づくとピーポーピーポーは止めてくれた。 当時まだ"マールボロー"が威力を発揮していた頃である。私はポケットをあさり、マールボロー2箱とボールペンとチュウインガムを渡し礼を言った。
病気でも事故でもないのにモスクワで救急車に乗るなんて何と貴重な経験をしたことかと、変に胸を張ったものだった。 (了) |