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 チェーホフ歿後100年レトロスペクティヴ > チェーホフ

チェーホフ(1893年モスクワで撮影)チェーホフ

アントン・パーヴロヴィッチ・チェーホフ
Антон Павлович Чехов
Anton Pavlovich Chekhov
1860年1月17日〜1904年7月2日


 ロシア南部、ウクライナのアゾフ海に面する港町タガンログで、雑貨商の三男として生まれた。祖父は、農奴解放令以前に地主から自由の権利を買い取った元農奴だった。チェーホフが16歳の時、家が破産。父と家族は職を求めて、夜逃げ同然にモスクワに移ったが、彼はひとり故郷に残り、自活して中学を卒業した。
 1879年、19歳でモスクワ大学医学部に入学するが、在学中から家族を養うため、ユーモラスな小品を雑誌や新聞に書きまくった。"アントーシャ・チェホンテ"などのペンネームで7年間に書いた作品は、400編を越え、職業作家としてすでに成功していた。
 だが、安易な名声には満足せず、医者となった後、かつてドストエフスキーを文壇に送り出した老作家グリゴローヴィチの忠告もあって、本格的な文学を志すようになっていった。
 1886年には「たわむれ」「コーラスガール」などの珠玉の短編を発表、翌87年には、戯曲「イワーノフ」がモスクワで上演、88年には長編「曠野」を発表。練り上げられたチェーホフ独自の作風によって確固たる地位を築いていった。
 一方、1884年10月、ペテルブルグで取材中に最初の喀血をし、チェーホフの体は結核に徐々に蝕まれていた。1890年、病身をおして極東のサハリンを旅行し、流刑の実態を調査した。その成果は、詳細なルポルタージュ「サハリン島」として95年に刊行されたが、これ以後の作品に社会的な幅と深みを与えることになった。
 サハリン旅行後の1892年、モスクワ郊外の小さな田舎町メーリホボに別荘を求め、父・母・妹と住んだ。この地で、中編「六号室」(1892)、「わが人生」(1896)、戯曲「かもめ」(1896)、「ワーニャ伯父さん」(1897)などの傑作を書いた。また、飢饉による難民の救済やコレラの防疫、学校の建設などの社会活動を熱心に行った。
 1898年、こうした無理がたたり、結核の病状が進行したため、チェーホフはメーリホボから温暖なクリミアのヤルタに移住した。転地療養のために、西欧へも出かけた。
 この頃、俳優で演出家のスタニスラフスキーと出会った。1898年に創設されたモスクワ芸術座の監督になったスタニスラフスキーは、この年、チェーホフの戯曲「かもめ」を演出し、以後、この劇作家と演出家のコンビによって、「ワーニャ伯父さん」、「三人姉妹」(1901)、「桜の園」(1904)などの名作が生まれ、チェーホフの晩年はもっぱら戯曲の革新のために捧げられることになった。
 1901年5月、モスクワ芸術座の女優オリガ・クニッペルとに結婚。だが、1904年6月、病状が悪化し、南ドイツの温泉地バーデンワイラーに転地した。7月2日、その地で死んだ。44歳だった。
 今日、チェーホフは、ストーリーよりも雰囲気や象徴を重視する現代短編小説の基礎を作りあげた短編小説の巨匠と称されている。また、「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」は、チェーホフの4大戯曲と呼ばれ、ロシア演劇に近代自然主義をもたらし、世界の近代劇に及ぼした影響は計り知れない。
チェーホフとゴーリキー(1900年5月ヤルタで)
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