ロシア映画社>特別企画>サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>文学に描かれたサンクト・ペテルブルグ

ペトラシェフスキー事件の死刑執行の様子を描いた絵 1849年4月、密告によってペトラシェフスキーが逮捕され、ドストエフスキーも他のメンバーとともにサンクトペテルブルグ発祥の地ペトロハヴロフスク要塞に投獄され、軍法会議にかけられました。その結果、ドストエフスキーを含む21名に死刑の判決が下され、12月、サンクトペテルブルグのセメヨノフスキー練兵場で刑が執行されることになりました。極寒の中を死刑場に引き出され、3人が杭に縛られて、まさに銃の引き金が引かれようとした瞬間、死刑の執行は中止され、本当の判決が読み上げられました。それは、"ヨーロッパの憲兵"を任じ、反動弾圧政治で知られた皇帝ニコライ1世が、あらかじめ作らせていた筋書どおりに運んだ演出だったのです。ドストエフスキーはシベリアでの4年間の強制労働の後、兵卒として勤務することになりました。
 流刑地での過酷な生活、聖書を読むことだけが許された獄中の読書体験、政治犯を「旦那衆」と呼んで憎悪と敵意を抱く一般の囚人たちとの体験、そうしたものが、ドストエフスキーに西欧的な無神論的社会主義を否定させ、キリスト教に精神の安住を求ようとする、思想の転向を経験させることになりました。後に『死の家の記録』(1861〜62)でこうした過酷な体験を克明に語り、自らの精神的・心理的な変化を描写しました。
シベリアの流刑地オムスク要塞監獄 1854年に出所したドストエフスキーは、モンゴル国境付近のセミパラチンスク守備隊駐屯地に一兵卒として配属されました。兵役中、肺炎を病む若い未亡人と熱烈な恋愛をし、数年に渡る執拗な求愛の末、結婚しました。しかし、その結婚生活は幸福なものとはなりませんでした。
 1859年、ドストエフスキーは、サンクトペテルブルクへの帰還を許されました。1861年に兄ミハイルとともに雑誌「時代」を創刊し、『死の家の記録』と『虐げられた人たち』(1861)を連載し、10余年の空白を経て見事な返り咲きを見せました。翌62年には、念願のはじめてのヨーロッパ旅行に出て、西欧文化の非情さを強調したエッセー集『夏の印象をめぐる冬の随想』(1863)を発表します。
 しかし、こうした精力的な活動の一方で、ドストエフスキーの個人生活は破綻へと向かっていました。冷え切った妻との仲、20歳も年下の女子学生との苦い恋愛、そして妻の死、さらには、兄の死によってもたらされた莫大な負債。ドストエフスキーは困窮を強いられることになりました。とうとう、出版社から借金をする見返りに、短期間のうちに新作を書きあげなければ、すべての著作権を永久的に放棄するという契約をしてしまいます。原稿締切を目前にして彼は、自分のルーレット狂を題材とする作品『賭博者』(1866)を、アンナ・スニートキナという若い女性速記者を雇って口述筆記させて完成させます。彼女とはその直後に結婚しました。
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