ドストエフスキー(フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー1821〜81)は、慈善病院の医師の次男としてモスクワに生まれました。彼が10歳の時、父は8等官に昇進し、年功によって貴族の称号を与えられて、モスクワ南方のトゥーラ県に農奴百人の領地を手に入れました。これは、当時としては、最下級の地主で、一家の暮らしは楽ではなかったようです。それでも、父親は子供の教育には熱心で、ドストエフスキーは兄とともに12歳の時から寄宿学校に入れられました。17歳でサンクトペテルブルグの陸軍中央工兵学校に入学。この頃から文学への憧れが強く、ヨーロッパの作家たちの作品を読み耽っていました。
1839年、父が領地の農奴に惨殺されました。気性の激しいドストエフスキーの父親は、妻の死後、飲酒にふけり、農奴たちの恨みを買うほどの残忍な振る舞いがあったといわれています。
1843年に工兵学校を卒業すると、工兵局製図課に勤務します。文学への志を捨てがたく、仕事の傍らバルザックの著作を翻訳し、これが多少の収入になったこともあって、1年足らずで工兵局をやめて作家になる決意をします。退職後、10ヵ月をかけて書き上げた処女作『貧しき人々』(1846)は、下級官吏の不幸な恋愛物語の中に虐げられた人々を共感を込めて描きあげ、当時の批評界の大立者ベリンスキーの激賞を受けて、ドストエフスキーは文壇に華々しく登場することになりました。
しかし、続いて発表された数作品は、評判が芳しくなく、生来の自尊心が強くて社交下手な性格も災いして、文壇でのドストエフスキーの人気は急速に下落してしまいます。やがて、ベリンスキーもドストエフスキーのこの時期の作品に異常心理への病的な関心とリアリズムからの逸脱を見てとり、彼を見放してしまいます。こうした頃、ドストエフスキーは、外務省の翻訳官であったペトラシェフスキーの家に出入りするようになります。そこでは、若いインテリゲンチャが集まり、フランスの空想的社会主義者フーリエの著作やドイツの進歩的哲学者フォイエルバハの著書などを議論していました。やがて、1848年のフランスの2月革命の影響を受けて、この集まりの中からより急進的なグループがつくられるようになり、彼らは農民蜂起や秘密文書の印刷、配布を計画するようになりました。ドストエフスキーもいつしかこのグループと関わりを持つようになっていました。
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