ロシア映画社>特別企画>サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>文学に描かれたサンクト・ペテルブルグ |
1856年、軍務を退いたトルストイは、サンクトペテルブルクで文壇の人々に暖かく迎えられます。57年にはヨーロッパに旅行し、文明の進歩に疑問を抱きます。帰国した彼は、小説を執筆する一方、農民の教育に関心を寄せるようになり、農民学校の開設を企画します。60年、結核を患う長兄を見舞うため再度ヨーロッパに旅発ちます。長兄は死んでしまいますが、この旅で彼は、フランス、ドイツ、イギリスなどの学校の教育事情を視察します。ヤースナヤ・ポリャーナに戻ると、精力的に教育事業に取り組み、村では学校でみずから農民の子弟を教えました。その教育方法は現代の進歩主義教育の原型ともなっています。 1862年、トルストイは、モスクワの宮廷医の娘ソフィア・アンドレーブナ・ベルスと結婚します。この結婚は、充実した創作活動の日々をもたらし、その後の15年間に、2大傑作『戦争と平和』(1865〜69)と『アンナ・カレーニナ』(1875〜77)を執筆しました。その一方で、内心の虚無感、生の無意味さという観念が彼の心を支配するようになります。 1879年に書き始められ1882年ジュネーブで刊行された『懺悔』の中で、トルストイは精神の混迷が深刻化しつつあり、自分をふくめた上流階級の人々の利己的でむなしい有様を弾劾しました。そして、道徳的社会的確信を求めて長い探究をはじめました。これ以後、トルストイには道徳家的な面が強く現れることになります。 1882年、トルストイは国勢調査の調査員としてモスクワの貧民街を訪れます。そこで、飢えと貧しさに泣く人々の姿を見て、衣服や食物を与える慈善ではなく、魂の救済こそが唯一の救いであるとの考えを抱きます。この自分の思想の一大転換は『さらばわれら何をなすべきか』(1885)に結実します。ここで、トルストイは、人類の歴史上、最新の第三の奴隷制度である金銭による国家への隷属状態を批判し、私有財産、軍隊、裁判、教会、国家などを否定し、愛と勤労と奉仕の理想世界の実現を説きました。トルストイのこの考え方は、その後の生涯を通じて、レーニン、ガンジーなど多くの人々に衝撃を与え続けて行くことになります。 |
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