ロシア映画社>特別企画>サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>文学に描かれたサンクト・ペテルブルグ

ゴンチャロフの「オブローモフ」
ゴンチャロフ(1812〜91) ゴンチャロフ(イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャロフ1812〜91)は、ボルガ河中流の町シンビルスクのろうそく工場を経営する富裕な穀物商の次男として生まれました。彼が7歳の時、父が亡くなり、早くから寄宿塾に送られてドイツ語とフランス語を身につけます。しかし、家業の商人となるために入れられたモスクワ商業学校は、彼の性格にあわず退学。1831年、モスクワ大学文学部に入学しました。このころプーシキンに多大の感銘を受けました。卒業後、故郷の県知事秘書となりますが、1835年、サンクトペテルブルクに出て、大蔵省外国貿易局の翻訳官として勤務するようになります。
 このサンクトペテルブルクで画家のニコライ・マイコフ家と知り合ったことが、ゴンチャロフを文学者として歩ませることになります。マイコフ家の子供たちの家庭教師を務め、マイコフ家のサロンに出入りするようになったのです。当時、マイコフ家は、サンクトペテルプルグでは最も名の知れた文学サロンでした。このサロンの手書きの雑誌にゴンチャロフは詩や中篇小説を発表しました。
 1846年に書き上げられ、空想家の主人公と実務家の叔父を対立させ、やがて変貌していく過程を描いた小説『平凡物語』は、ベリンスキーに"ロマンチシズム打倒の作"と激賞されて翌47年『同時代人』に掲載されて、ゴンチャロフの文壇デビュー作となりました。
「ロシア海軍提督プチャーチン一行」(川原慶賀・魯西亜整儀写真鑑)より模写。 2月革命後、停滞した世相の中で創作力の枯れることを恐れたゴンチャロフは、1852〜55年にプチャーチン提督の秘書官として世界周航に参加します。プチャーチンは、当時、ロシア海軍提督で、トルコとの海戦やペルシャとの国境画定交渉で手腕を発揮した人物ですが、アメリカが日本に開国使節をおくったことを知った時のロシア政府は、彼をロシア艦隊司令長官兼遣日使節に任命して、日本に派遣することにしたのです。世界周航とは、シベリア鉄道は勿論のこと、航空機などなかった時代の、この間の船舶による往来にほかなりません。
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