サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都…>デカブリストの反乱

ナポレオンの侵入が生んだ改革運動
 クトゥーゾフ将軍は翌年病死しましたが、ロシア軍は皇帝とともにナポレオン軍を追って、ヨーロッパを転戦しました。そして、1814年3月にはパリに入城しました。
アレクサンドル1世 ナポレオンはエルバ島に流され、アレクサンドル1世は、このナポレオンを打ち砕いたという実績を背景に1815年のウィーン会議では主役を演じ、ナポレオン後の国際政治で頭角を表すようになります。同時にアレクサンドル1世は、宗教にも強い関心を示し、やがて神秘主義的な傾向も示すようになりました。
 こうした、皇帝の国際政治への没頭や宗教的傾向は、国内政治をおろそかにさせることとなりました。1815年頃からは、元陸軍大臣のアラクチェーエフひとりに国内政治が任されることになりました。このアラクチェーエフは、妻子のある予備役兵を入植させて、その子が18歳になれば兵とし、45歳になれば村に戻す、という屯田兵制度を実施しました。兵士を永遠に奴隷化するものとも受け取られるこの制度は、反発を招き、反乱も起こりましたが、ことごとく鎮圧されました。また、アラクチェーエフは危険思想も厳しく弾圧しました。
 一方、ナポレオン軍を追って、遠い戦場にも将校として出陣した貴族たちは、先進ヨーロッパの政治や社会を見聞していました。また、農民出身の兵に接して、ロシア民衆の悲惨な生活の実情を知りました。彼らの中から、遅れた祖国ロシアと民衆の救済を願う改革運動が起こり、結社が組織されました。首都郊外に設けられた貴族学校リツェイで学んだ人たちの中には、この改革運動に参加する者が多く、詩人のプーシキンもリツェイで学んだひとりで、運動の周辺にいました。
 この改革運動は、農奴制廃止と憲法の制定をめざすという点では一致しながらも、共和制か立憲君主制かで意見が分かれ、2つの結社に分裂していました。しかし、1824年に組織を統合することに合意し、1826年には行動を起こすことを決めていました。
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