サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都…>大改革の時代

「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス
ヨハン・シュトラウス 「ワルツ王」と呼ばれるヨハン・シュトラウス(1825〜1899)は、同姓同名の「ワルツの父」と言われるヨハン・シュトラウス(1804〜1848)の長男です。父親は、彼を銀行員にしようと思っていたと言われています。しかし、息子はどうしても父親のようなワルツの作曲家になりたくて、19歳で自分の楽団を率いてウィーンでデビューしました。彼は、またたく間に父親と人気を争うようになりました。そして24歳の時、父親の死とともに彼は、ウィーンで最高の人気を誇る存在となっていました。この頃、「自分の葬式にはシュトラウスの指揮でワルツを演奏してもらいたい」と遺言した人もあったという逸話もあります。
 その後、ヨーロッパ各地、アメリカにも演奏旅行を重ね、行く先々で爆発的な喝乗を浴びていました。その名声はロシアにも伝わり、1856年にロシアの鉄道会社ツァールスコエ・セローが、非常に有利な条件でシュトラウスを演奏公演に招くことになりました。サンクト・ぺテルブルグに近いパブロフスクに広大な音楽堂を設け、そこでシュトラウスの演奏会を開こうというのです。鉄道会社としては、サンクト・ぺテルブルグから聴衆を運んで儲けよう、という狙いがありました。後の日本で言えば、宝塚歌劇団のような発想ですが、この企画は当り、シュトラウスはこの後、16年間、毎夏をパブロフスクで公演することになりました。
 このパブロフスク公演でシュトラウスが宿舎として与えられていたのは、ホテルではなく、豪壮な1軒の邸宅だったことからも、ロシアでの人気のほどが偲ばれますが、16年間には、色々なこともあったようで、伯爵令嬢オリガ・スミルニツカヤとの実らなかった恋や、逆に女性に追いかけられて結婚式の直前に逃げ帰ったことなどもあるようです。
 また、ウィーンから約2000キロ、当時の鉄道で3日がかりの旅は、例えば、ポーランドではマズルカやポロネーズをシュトラウスに教え、サンクト・ぺテルブルグやパブロフスクではロシア民族音楽を考えさせることになりました。そして、オリガへの想いから出来上がった「オリガ・ポルカ」(1857年)、ワルツ「ぺテルブルグの別れ」(作品210/1858年)、ポルカ「パブロフスクの森にて」(別名「クラップフェンの森にて」1870年)など十数曲がロシアで作曲されました。
 シュトラウスがロシアを訪れたのは、29歳からの16年間で、人生の一番多感な時期にあたりました。60年代から作曲に力を入れるようになり、「美しき青きドナウ」は彼の42歳のときに、「ウイーンの森の物語」はその翌年に作曲されました。その後、フランスの作曲家オッフェンバックに刺激されて、ウィーンの劇場のために数々のオペレッタも書きました。「こうもり」(1874)、「ジプシー男爵」(1885)がとくに有名です。シュトラウスは73歳でウィーンに没しました。
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