ロシアの最初の鉄道は、1836年に私設株式会社にツァールスコエ・セロー鉄道の開設を委任したことに始まります。この年は、プーシキンの小説「大尉の娘」、ゴーゴリの戯曲「検察官」などが発表され、ロシア文学が花開こうとしていた時期でもありました。その後、鉄道は、1851年には、モスクワ〜サンクト・ペテルブルグ間が開通し、さらに、アレクサンドル2世の大改革のもとで援助を受け、1865年には総延長3500キロ、1875年には1万8200キロと飛躍的に発展していきました。鉄道事業は、レールを生産するための製鉄業に始まって、ロシアの重工業化をもたらすもととなりました。
デカブリストの反乱の後、ニコライ1世からアレクサンドル2世治下のロシアは、厳しい統制の時代、大改革の時代と揺れ動く中で、こうした経済的な充足のもと、貴族文化はその頂点を極めようとしていました。
一方、ナポレオン戦争終了後の1814年に開かれたウィーン会議は、ワルツをヨーロッパ中に広める契機となりました。18世紀末にオーストリア、南ドイツに生まれたワルツは、19世紀を代表する舞曲となり、宮廷舞踊になくてはならないものとなったのです。ウィーン会議で主役を演じたロシアでも、ワルツは貴族にとって欠かせないものになっていました。この時代のヨーロッパの作曲家たちの多くがワルツを作曲していますが、チャイコフスキーが「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」などのバレエ音楽にワルツを巧みにくみこんでいることからも、ロシア貴族のワルツ好きを伺い知ることができるでしょう。 |