ロシア映画社 > 特別企画 > サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行

チャイコフスキー
 Пётр Чайковский
 Pyotr Il'ich Chaikovskii

 チャイコフスキーは、1840年5月7日(ロシア暦では4月25日)、ウラル山麓の鉱山町カムスコ=ウォトキンスクという町に生まれた。父は鉱山区監督官だった。
 音楽好きの父や母の影響を受けて、幼い頃からピアノを学んだり,即興演奏を楽しんだりしていたが、まだ、その才能に気づく者はおらず、家庭教師のフランス人女性デュルバッフだけが、詩才のひらめきを見出していたという。
 父の仕事の関係で一家は引越しが多くなり、チャイコフスキー少年は、10歳の時、親元を離れベテルブルグの法律学校に入学して、寮生活をおくるようになった。この法律学校時代に声楽、ピアノ、音楽理論を習った。しかし、1859年に卒業すると、法務省に9等文官として職を得た。父もこの頃には、チャイコフスキーの音楽的才能には気がついてはいたが、当時の社会通念に従って、役人として生きるようにしたのであった。
1970年に開催された大阪万国博覧会[ソビエト連邦館]に展示されたチャイコフスキー愛用のピアノ 1862年ペテルブルグ音楽院開設されると、チャイコフスキーは、その第1回生となって、アントン・ルービンシュテインらに師事した。翌年、父の許しをえて法務省を辞職し、1865年には優秀な成績で音楽院を卒業した。1866年1月、アントンの弟ニコライ・ルービンシテュインによって新らしく開設されたモスクワ音楽院の講師として迎えられた。モスクワでは、このニコライの家に寄宿した。ここでは、宴会に明け暮れる生活にまき込まれ、幼少の頃より神経質で繊細なチャイコフスキーを悩ませたが、ニコライと劇作家オストロフスキーの主宰する「芸術家のサークル」などで、バラキレフたちの「力強い仲間」(いわゆるロシア五人組)などの音楽家や作家たちの知遇を得ることにもなった。中でも、後に彼の楽譜の出版社となったユルゲンソンとの出会いは大きなものとなった。
 教職と創作活動の両立は、決して生易しいことではなかったが、「交響曲第1番」(1866年)「交響曲第2番」(1872年)、「弦楽4重奏曲第1番」(1871年)、「ピアノ協奏曲第1番」(1875年)、バレエ「白鳥の湖」(1875年)など、彼の初期の名曲が、この時代に生みだされた。一方、イタリアの歌手デジレ・アルトーと婚約までしながら、アルトーが他の歌手と結婚してしまったのも、この時期の出来事だった。また一時、音楽批評の筆をとったこともあった。
▲映画「チャイコフスキー」より
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