ロシア映画社 > 特別企画 > サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行

結婚した頃の実際のチャイコフスキー 作曲家としては円熟期に入っていた1876年、富裕な未亡人フォン・メックとの奇妙な交際がはじまった。夫人はチャイコフスキーの音楽を高く評価し、6000ルーブルの年金を提供した。2人は14年間に1200通にものぼる手紙を交わしながら、1度も顔をあわせることがなかった。
 1877年、プーシキンの原作による歌劇「エフゲニ・オネーギン」の作曲に熱中していた頃、チャイコフスキーは、音楽院のかつての教え子ミリューコワから求婚の手紙を受け取った。彼は、ミリューコワの顔すら思い出せなかったが、いままさに作曲中のオペラの中で、主人公オネーギンに手紙で求愛したヒロイン、タチアーナが冷たく退けられることになっており、創作と現実との符合におののき、彼女との結婚に踏み切ってしまった。しかし、結婚生活は最初からうまくいかず、チャイコフスキーは自殺を考えるほど追い詰められて、2人は早々に離別した。
 1878年からは音楽院を辞職して、作曲活動に専念できる生活に入った。数年間、創作力の低迷に苦しみ、外国に旅行することも多かったものの、オペラ「オルレアンの少女」(1879年)と「マゼッパ」(1883年)、3つの「管弦楽組曲」(1879年、83年、84年)、「ピアノ協奏曲第2番」(1880年)など、勤勉に作曲を続けた。ニコライ・ルービンシュテインがパリで客死したとき、チャイコフスキーはニースにいたが、悲報を聞いてパリに駆けつけ、1882年、ニコライヘの追憶の思いをこめたピアノ2重奏曲「偉大な芸術家の思い出」を作曲している。
 1885年、モスクワ郊外にはじめて自分の邸宅を構えた頃から、再び充実した創作力を回復し、「交響曲第5番」(1888年)、「組曲第4番」(1887年)、バレエ「眠れる森の美女」(1889年)・「くるみ割り人形」(1892年)、オペラ「スペードの女王」(1890年)・「ヨランタ」(1891)など、晩年の名作を次々と生み出した。また、1887〜91年、ヨーロッパとアメリカの主要都市で自らの指揮による自作演奏会をたびたび開き、大成功をおさめた。
 1890年、フォン・メック家の経済事情の変化によって、年金打切りが通告された。すでに名声を得て、経済的にも十分自立できていたチャイコフスキーだったが、この通告は、夫人の裏切りのように思え、しばらく煩問しないわけにはいかなかった。
 1893年10月28日、サンクトペテルブルクで「交響曲第6番ロ短調(悲愴)」を自らの指揮で初演したが、あまり好評ではなかった。その9日後の11月6日、チャイコフスキーは急死した。死因は一般にコレラとされている。しかし,同性愛のスキャンダルの暴露を恐れて砒素で自殺したという説もある。ある貴族が皇帝に彼の同性愛癖を訴え、この醜聞が広がることを恐れた法律学校時代の同級生たちがチャイコフスキーに自殺を迫った、と言うのである。
 チャイコフスキーは、ヨーロッパで活躍するロシア人演奏家がコンサートに定期的にとりあげるようになった最初の作曲家だった。1860年代の革命思想の高揚の時代とそれに続く反動的な悲観的時代に生きたチャイコフスキーは、ロシア人の特質とも言える絶望と歓喜との間を大きく揺れ動いた。その音楽は、そうしたロシア的なものとヨーロッパの影響がたくみに融合しながら独自の華麗な世界を作り上げている。ロシア音楽を本当の意味で国際的水準に高めた作曲家として、チャイコフスキーの果たした歴史的役割は不滅であると言えよう。
▲映画「チャイコフスキー」より
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