ロシア映画社 > 特別企画 > サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行

イーゴリ・タランキン監督とマルガリータ・ピリーヒナ
イーゴリ・タランキン(監督・脚本)
 Igor Talankin
 (1927/10/3〜 )
 イーゴリ・タランキン監督は、1960年代のソビエト映画界の新しい波を代表するひとりであり、「雪解け」とともに訪れたソビエト社会の時代の流れを背景に、ひとつの家庭とか、ひとつの人生をみつめた作品を発表してきた。「チャイコフスキー」に到るまでの10年間において、監督作品が“2本半”と寡作ながらも、いずれも高い評価を受けていた。
 “半”というのは処女作『セリョージャ』(1960年)のことで、この映画は、ミハル・ロンム監督が創設したモスフィルム撮影所附属映画研究所高等監督コースの第1回卒業制作作品でゲオルギー・ダネーリアと共同で監督したものであった。これは、女性作家ヴェーラ・パノーヴァの原作で、現代ソビエトの家庭を子供の眼を通じて生き生きと描き出し、カルロヴィ・ヴァリ映画祭グランプリ他を受けた。
 次の単独監督作となった『はじまり』(1962年)もパノーヴァ原作の映画化。戦争の苦難を乗り越えて行く一家の物語で、苦しい体験を味わわなければならなかった少年が、独立への第一歩を踏みだす様子を描いて、ベネチア映画祭の審査員特別賞を受けた。
 その後、一時期、母校の演出科で後進の指導にあたり、セルゲイ・ボンダルチュク監督の「戦争と平和」にも協力した。1967年の『昼の星』は女流詩人オリガ・ベルゴーリツの伝記映画で,ヒロインの内面的な苦悩を浮彫りにして、反響を呼んだ。
 「チャイコフスキー」の後も、『目的の選択』(1974年)、『セルギー神父』(1978年)、『土曜日から月曜日までの休養時間』(1984年)、『所有されるもの』(1992年)などの問題作を数年おきに発表し続けている。

マルガリータ・ピリーヒナ(撮影監督)
 Margarita Pilikhina
 (1926/6/30〜1975/3/13)
 当時も21世紀の現在においても、世界的に極めてめずらしい女性の映画カメラマンである。マルガリータは、モスクワ大学撮影科を卒業後、ゴーリキ記念映画スタジオに派遣された。初仕事は、1954年の『神秘的な見つけ物』で、1955年の『大陸をめざして』とこの両作品では,第二撮影監督として参加している。
 1957年『同じ町の二人』で撮影監督として一人立ち。東方のある国を舞台にして労働者たちの自由への闘争を描いたこの作品は絶賛を博し、マルガリータにモスクワ映画祭の奨励賞をもたらした。
 彼女の名を一躍、有名にしたのは「私は20歳」(1966年)で、即興撮影や洗練されたテクニックを十分にとり入れた美しい構図の素晴らしさは、いまだに語り草となっているほどで、映画の中に出てくるモスクワは、まるで息づいているように新鮮で、生きている人間のようにとらえられている、と絶賛された。
 ついでイーゴリ・タランキン監督と組んで『昼の星』(1967年)を撮影。過去、現在、幻想、夢と現実、などが入りまじったファンタジックなこの作品に、いかにも女性らしい感覚を盛り込んで成功させ、タランキンから高い評価を受けた。この成功を元に「チャイコフスキー」で再びコンビを組んで、天才作曲家の繊細な内面を見事に映像化している。男性でも難しい70ミリの重いカメラを手持ちにして撮影したというから、驚くべき馬力の持ち主であったのだろう。
 撮影に入っていないときは、映画大学の教授を勤め、後進の育成にも才能を発揮していたが、1974年のマイヤ・プリセツカヤ主演のバレー映画「アンナ・カレーニナ」が遺作となった。

ディミトリ・ティオムキン(総指揮・音楽監督)
 Dimitri Tiomkin
 (1899/5/10〜1979/11/11)
 “ティミー”の愛称で呼ばれたハリウッドきってのベテラン作曲家で、アカデミー賞の候補にあげられること十数回、「真昼の決闘」(1952年、主題歌・劇音楽)、「紅の翼」(1954年、劇音楽)、「老人と海」(1958年、劇音楽)などで受賞。彼の手になる「ハイヌーン」(1952年)、「OK牧場の決闘」(1957年)、「リオ・ブラボー」(1959年)、「アラモ」(1960年) などの西部劇音楽は、今なお映画音楽の不滅のスタンダード・ナンバーとして演奏され続けている。
 そのティオムキンは、ウクライナ系ロシア人で、ペテルブルグに生まれた。母がすぐれたピアニストだったので、幼ないころからピアノの手ほどきを受け、ペテルブルグ音楽院の作曲科に学んだ。作曲の師は名高いグラズーノフで、卒業後は当時最高のピアニストであり、理論家としても名高いブゾーニに個人教授を受けた。1921年、22歳のティオムキンは、ベルリンでピアニストとしてデビューして華々しい成功をかざった。現代音楽が得意で、パリではガーシュインの「協奏曲へ調」のヨーロッパ初演をやってのけた。1927年と30年の2度にわたリアメリカヘ演奏旅行。ちょうど映画がサイレントからトーキーになった時代で、映画音楽家としてデビュー。自由を求めそのままハリウッドに住みつき、本格的に映画音楽に取組み数々の名曲を残すことになった。
 「私は芸術におけるチャイコフスキーの門下生」と自称していたティオムキンの映画「チャイコフスキー」製作への思いは熱く、米ソ間の思惑の違いから破談しかけたが、辛抱強くあるいはエネルギッシュに完成へと導いていった。
 「チャイコフスキー」完成後は、モスフィルムと共同で、スモクトノフスキー主演によるプロコフィエフの伝記映画を企画していたが、1979年、ロンドンで没した。
タランキン監督とディミトリ・ティオムキン
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