そんなラスプーチンの傍若無人な振るまいに対して、正教会の神父たちも、彼を糾弾し、ペテルスブルグから追放する機会をうかがっていました。そしてある日、若い娘を使って、ラスプーチンを呼び寄せた神父たちは、十字架を振りかざし、彼を痛めつけると、教区からの追放を宣言しました。
正教会の強力な排斥運動により、首都を追われたラスプーチンは、放浪時の襤褸をまとい氷の原にさまよい出ましたが、その時、一瞬のひらめきを得て、狂ったように宮殿に向かいました。そこで再び、皇后アレクサンドラに強烈な暗示を与えて、奇跡的な復活をとげるのでした。
時局は刻一刻と変化していました。益々過激になる暴動、社会的混乱、議会ではその原因を、ラスプーチンの存在そのものであると断定し、彼の糾弾、追放を宣言しました。しかし、皇后が"神"として崇拝するため、腐敗政治の中心人物であるラスプーチンには、どうして手を出すことが出来ませんでした。
以前から、秘かに進められていたラスプーチンの暗殺計画が具体化してきたのは、1916年も終ろうとする、この頃でした。計画の中心人物は、皇帝のいとこのドミトリー・パヴロヴィッチ大公とユスーポフ公爵でした。
1916年12月30日。ラスプーチンは、ユスーポフ公爵の美しい妻イリーナに会うために、邸の一室で待っていました。その時、別室にはラスプーチンにふるまった、青酸カリ入りの酒が効くのをジッと待っているユスーポフ公爵たちがいました。しばらくして、ユスーポフが様子を見に行くと、酒の味に文句をつけながらも、一向に毒が効いた風のないラスプーチンの姿がありました。毒も効かぬ彼の怪物ぶりに驚いた一同は、遂に最後の手段として、銃で至近距離から、ラスプーチンの背中を撃ち抜きました。完全に息の根を止めたと思われ、ホッと一ぷくするユスーポフ公爵でしたが、その背後には、大きく目を見開いたラスプーチンが迫っていました。しかしながら、さしもの怪人も、再度の銃弾に倒れ、二度とその獰猛な肉体を動かすことなく、静かに冷たくなっていきました……。そして数日後、その遺骸がネヴァ河で発見されました。
埋葬の日、ニコライ2世は、涙にくれる皇后アレクサンドラと共に、冷たくなったラスプーチンの遺体を、複雑な感情を持って見送っていました。やがて、彼らが断頭台の露と消え、権力を欲しいままにした帝国が、崩壊していくことを、不吉に暗示するかのように、夕陽が重く沈んでいくのでした……。
そして、革命の足音は、確実にすぐそこまで聞こえていました。 |