サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都…>第1次大戦

その後のニコライ2世とロマノフ王家の運命
 1917年に2月革命が起こった時、ニコライ2世は、モギリョフ市の大本営にいました。そこから鎮圧軍を首都に送り、自分もツァールスコエ・セロに戻ろうとしましたが果たせませんでした。軍の首脳は、首都の臨時政府と独自に接触しており、この要請を受けて、皇帝に皇太子への譲位を求めました。
 ニコライ2世は、いったん、これに同意したものの、皇太子の病気を考えて、自分の弟ミハイルに譲位する意向を示しました。ミハイルは、自分の身の安全が保証されないという理由で即位をためらいました。
イパティエフ邸 3月4日、ニコライ2世の退位勅書とミハイルの即位拒否の勅書が同時に公表されました。これによって、ロマノフ王朝は事実上、消滅しました。ニコライ2世は、臨時政府によって自由を剥奪され、8月には、家族とともにシベリアのトボリスクへ流されました。 やがて10月革命が起きると、ニコライ2世と一家はウラルのエカテリンブルグへ移され、この地のイパティエフ邸に幽閉されることになりました。
 革命政府のリーダー、レーニンは当初、ドイツとの戦争が続いている間は、皇帝一家を人質として確保しておき、外交交渉の切り札にしようと考えていました。1918年春、「ブレスト・リトフクス条約」が結ばれ、ドイツとの戦争は終わりました。しかし、国内では、大戦中に捕虜となり、シベリアから帰国しようとしていたチェコスロバキア軍が、反乱を起こしました。これを機にアメリカ軍と日本軍がシベリアに進駐しました。さらに、反乱に呼応して、反革命軍もロシア各地で攻勢をかけました。生まれたばかりのソビエト政府にとって最大の危機が訪れたのです。7月の初めには、エカテリンブルグの目前に反革命軍が迫っていました。
 こうした中で、反革命軍による皇帝の奪還を恐れたソビエト政府は、1918年7月16日深夜、イパティエフ邸で、皇后および5人の子供とともにニコライ2世を銃殺しました。数日後、ソビエト政府は、ニコライ2世が逃亡を図ろうとしたため処刑したと発表しました。そして、残る家族の身柄については、安全な場所に移されたとしました。
 その後、エカテリンブルグは、反革命軍の手に落ち、ニコライ2世と家族の消息が調査されました。しかし、イパティエフ邸で銃殺が行われた痕跡を発見しましたが、ニコライ2世や家族の遺体と見られるものは、発見されませんでした。やがて、国内戦はソビエト政府の勝利に終わり、調査に当たったソコロフ捜査官は、資料を携えてヨーロッパに亡命しました。
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