サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都…>第1次大戦

 ニコライ2世と家族が処刑された1918年、時を前後して、ロマノフ家の人々も次々と殺害されました。この中には有名な歴史学者だったニコライ・ミハイロビッチ皇子がいて、作家のマクシム・ゴーリキーは、レーニンに皇子を殺さないよう嘆願しましたが、「革命に歴史家は不要」と拒否されたと伝えられています。
 ロマノフ王家の一族は、17人が殺害され、生き残ったのは、ニコライ2世の母親マリー皇太后、8人の皇子、12人の皇女でした。この中には、早い時期に出国できた人や陸路ペルシャに逃れた人もいましたが、多くは、ソビエト政権の手の及ばないクリミアに集まっていました。
 1919年、イギリスが差し向けた戦艦マ―ルボロ号に救出されたロマノフ家の一族は、クリミアを後にしました。そして、その後、ヨーロッパやアメリカなど世界各地に散って行きました。この人々はやがて、ロマノフ王家の5分家を名のりました。このうち、キリル大公は、1924年に自らをロシアの「亡命皇帝」であると宣言しました。その後、帝位はキリル大公の息子であるウラジーミル・ロマノフに受け継がれました。ウラジーミルは1992年にアメリカで亡くなりましたが、その孫が帝位を継ぐものとされています。しかし、キリル大公は革命政権に寝返った人物であり、その家系は帝位継承法からも疑問があるとして、他の4分家や旧ロシア貴族家の人々からは、反発を招いてきました。
 もはやロシアに帝政が復活する可能性は少ないと思われます。しかし、代々に渡って、ヨーロッパの王室や世界中の財閥との深い関係を持ってきたロマノフ家の血脈は、その枝葉まで探っていくと、現代世界の資本主義社会を操ってきた一大勢力だと考える研究者もいます。エネルギー資源を中心に形成されつつある近年のロシアの財閥の動向を見るとき、それが帝政時代には、ロマノフ家との姻戚関係を持って成長を遂げたものであることを思い起こすと、あるいは、ここにも現代のロマノフ家の姿が見え隠れしているのかも知れません。
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