サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都…>第1次大戦

●映画「ロマノフ王朝の最期」
ニコライ2世とラスプーチンを巡る歴史の物語
皇太子時代のニコライ2世 彼はイギリス国王ジョージ5世(エリザベス女王の祖父)の従兄弟にあたり、姿形が良く似ていると言われた ニコライ2世は、皇帝アレクサンドル3世の長男として、1868年にツァールスコエ・セロで生まれました。13歳の時に、革命家に殺された祖父アレクサンドル2世の死に立ち会い、皇太子として日本を訪問中の1891年(明治24年)には、大津事件に遭遇し、警護の巡査に斬りつけられて負傷しました。ロシアの家父長制を体現し、絵に描いたような専制君主であった父アレクサンドル3世に比べると、ニコライは気弱で、治世者としての器量には欠けるといわれました。ニコライ自身も自分に皇帝が継げるのか不安に思っていたようです。
 アレクサンドル3世が1894年に49歳で没したとき、皇太子ニコライはまだ26歳で、結婚もしていませんでした。皇帝となったニコライ2世は、即位と父帝の葬儀の後で、婚約者であるドイツのヘッセン・グルムシタット公の娘で、イギリスのヴィクトリア女王の孫娘にもあたるアリックスと結婚しました。アリックスはロシア正教に改宗し、皇后アレクサンドラ・フョードロブナとなりました。彼女は、結婚前は明朗な性格でしたが、結婚後、ロシアの宮廷になじめず、皇族たちから疎外されているという思いからか、夫を支配しようとする強いタイプの性格へと変わっていきました。
皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラ・フョードロブナ ニコライ2世と皇后は、長年、皇太子に恵まれませんでした。4人続けて女子ばかりだったため、帝位継承者となる男子を得たいと皇后アレクサンドラ・フョードロヴナは必死でした。そのためにオカルトに走ったり、聖者信仰にもすがりました。 1901年、フランス公式訪問の際、皇帝夫妻は霊能者フィリップ・ヴァショに会い、彼をロシアに招きました。皇帝と皇后はヴァショを「私たちの友人」と呼ぶようになりました。彼は皇太子の誕生を予言しました。そして、日露戦争中の1904年7月に5人目の子で、初めての男子、アレクセイが生まれました。ヴァショはこれで使命を果たし、フランスに帰国しましたが、別れにあたって、やがて皇后に神の話をしてくれるもう一人の霊能者が現れるだろうと予言しました。
 皇太子誕生の喜びもつかの間、アレクセイは曾祖母ヴィクトリア女王からの遺伝因子を引き継ぎ、血友病に侵されていることが判りました。この当時、血友病は不治の病で、生き長らえることは不可能と考えられていました。皇太子の病は国家機密とされ、国民には知らされませんでした。アレクセイ皇太子を公の場に出すことは、最小限にとどめられ、ケガをさせないよう細心の注意が払われました。しかし、幼い皇太子は、転んだはずみで内出血し、それが腫れて何週間もベッドから起き上がれなくなるということが、何度となくありました。
 1905年、アレクサンドラ皇后は、心霊療法でサロンの話題を集めつつあったラスプーチンにひき会わされました。彼は、1864年か65年の生まれで、シベリアの農民の子でした。1901年ごろ馬泥棒をして村を追放され、修道院を回って宗教家となって村に戻ってきました。その宗教はフリスト(鞭身派)という新宗派に近い新興宗教で、やがて、ラスプーチンは祈祷によって病気を癒すことで有名になりました。彼は、1904年ごろサンクト・ペテルブルグに出て、首都の神学大学校のフェオファンの紹介で、ニコライ大公の夫人のもとに出入りするようになりました。ラスプーチンは次第に宮廷内のサロンの中に入りこんで行き、皇帝夫妻にも彼の噂が聞こえてくるようになっていたのです。
アレクサンドラ皇后 アレクセイ皇太子 ニコライ2世
< 戻る
>>
次へ
>>
ほぼ毎日酔いどれ映画祭日記 | 今日のロシア映画 | 西日本 | 松本支局 | 服部美術館
掲示板 | 資料室 | 特別企画 | ホームページ | チグラーシャ・クラブ |
電網店
広告 [PR] にきび  わけあり商品 資格 再就職支援 無料レンタルサーバー