1900年、大改革以降、高度成長を遂げてきたロシア経済が失速してしましました。それまでも、しばしば凶作にみまわれ、1880年代から90年代にかけては飢饉も頻発する中で、政府によって工業化が計られるなど、ロシア社会はさまざまな矛盾をはらみながら近代化してきました。不況は、このロシア社会の矛盾を一挙に露呈させることになり、社会各層の不満は社会運動を生み、その動きは急速に激しさを増していきました。
学生運動が激しくなり、これに対して懲罰として徴兵処分を行った文相が1901年に暗殺され、翌年には内相も暗殺、さらに19世紀初頭よりロシア領となっていたフィンランドでもロシア総督が暗殺されるなど、久しく絶えていたテロが横行するようになりました。また、南ロシアでは、1902年にユダヤ人を襲撃するポグロムが起き、1903年には油田地帯のバクーで始まった大規模なストライキも広がっていきました。
こうした中、立憲主義者の解放同盟が設立され、ナロードニキの流れを受け継ぐ社会革命党(エスエル)が生まれました。さらに、マルクス主義のロシア社会民主労働党は、1903年、活動の方針で対立し、レーニンの率いるボリシェビキ(多数派)とマルトフのメンシェビキ(少数派)に分裂しました。 |