サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

1905年の革命
 19世紀末より、朝鮮半島を足場に大陸進出を狙う日本は、満州に権益を持ち、シベリア鉄道を建設して極東進出を伺うロシアと利害を衝突させていました。1904年2月、日露戦争が勃発しました。ロシア国内が危機的状況にある中、遠い極東に大兵力を送り込むことは、この当時のロシアにとっては、かなりの負担でした。準備も整わないままに戦争へ突入したロシア軍は、短期決戦体制の日本軍の攻撃を受け、遼陽、旅順で敗北し、撤退を重ねました。しかも、この戦争はロシア国民に極めて不人気でした。反政府派の人々は、戦争反対を唱えました。
1905年、サンクト・ペテルブルグのプチローフ工場で起きたストライキ。「血の日曜日」事件の発端は、この工場で働いていた労働者4人が解雇されたことにあった。 1905年1月9日の日曜日、サンクト・ペテルブルグの労働者とその家族、数万人が、司祭ガポンに率いられて冬宮広場に向かって行進しました。それは、憲法制定会議の招集、政治的自由、法の前の平等、団結権、8時間制労働など、皇帝に"プラウダ(正義・真実)"を請願しようとするものでした。行列の先頭に皇帝の肖像やイコンが掲げられていた「血の日曜日」事件 軍隊は冬宮広場などで発砲し、公式発表でも死者100人前後を出す大惨事となった。ことが、この行進の性格を示していました。しかし、この行進を阻止しようとする軍隊との衝突がいたるところで起こり、群集に向けた発砲の犠牲となって死傷者1000人と言われる流血の大惨事となってしまいました。この事件は、後に「血の日曜日」と呼ばれることになりました。
 「血の日曜日」の影響は極めて大きいものがありました。最初に動いたのは、ブルジョワジーでした。サンクト・ペテルブルグ、モスクワの企業家たちが政府に意見書を提出しました。労働者も待遇改善と憲法制定を求める運動を全国に拡大しました。農民も土地を求めて、地主の屋敷を打ち壊して、市民的自由を請願しました。また、ロシア帝国内の諸民族もロシアからの解放を求めました。
日露戦争「コサックの偵察隊、我軍の猛烈なる射撃の為に敗走す」の図(模写) 日露戦争「コサックの偵察隊、我軍の猛烈なる射撃の為に敗走す」の図(模写) 日露戦争「コサックの偵察隊、我軍の猛烈なる射撃の為に敗走す」の図(模写)
日露戦争「コサックの偵察隊、我軍の猛烈なる射撃の為に敗走す」の図(模写) 日露戦争「コサックの偵察隊、我軍の猛烈なる射撃の為に敗走す」の図(模写) 日露戦争「コサックの偵察隊、我軍の猛烈なる射撃の為に敗走す」の図(模写)
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