サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

エイゼンシュテイン監督生誕80周年(1978)を記念してリリースされたレコードのジャケット 日露戦争は、1905年2月末に奉天の会戦でロシア軍が敗れ、5月の日本海海戦はバルト海艦隊がほぼ全滅する結果となり、専制政府の威信の失墜は、決定的なものとなりました。6月に起きた、ポーランドのゼネストは、反乱の様相を呈するものでした。エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」(1925年製作)で描かれる、黒海艦隊の水兵の反乱は、この時期に起こったものです。
 7月、ポーツマスで日本との講和会議が開かれ、樺太の南半分が日本に割譲されました。日露戦争の終結後もロシア国内の情勢は沈静化すること1905年10月の鉄道ゼネストなく、10月にはゼネストが最高潮に達しようとしていました。サンクト・ペテルブルグでも全市ゼネストをめざす動きが起こって、労働者の代表を選出するよう呼びかけました。この代表たちは、ペテルブルグ労働者ソビエトと名乗るようになり、議長はフルスタリョフ・ノサーリ、そしてトロツキーが重要な活動家として登場してくることになりました。
 こうした中、政府は「10月17日勅書」を発布しました。この勅書は、信教・言論・集会・結社などの市民的自由の付与、選挙権の拡充、立法権を持つ国会の創設を約束するものでした。
 勅書の発布後、政府は労働組合などの団体結成の合法化やストライキに対する刑事罰の廃止などの措置を講じました。自由主義者や資本家は、勅映画「戦艦ポチョムキン」より書やこうした動きを歓迎し、反政府運動から離れていきました。しかし、労働者ソビエトは革命をさらに進めようとしました。これに対し、政府は弾圧を強化して、フルスタリョフ・ノサーリやトロツキーらを逮捕しました。さらに、12月にモスクワで起きた労働者の蜂起も軍隊を出動させて鎮圧しました。やがて、革命の波は退潮に向かい、政府は反動化していくことになりました。
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