1906年2月〜3月、新しく制定された選挙法のもと、国会の選挙が行われました。革命派の人々は、この選挙をボイコット、または無視しましたが、結果は解放同盟の流れをくむ立憲民主党(カデット)が、第1党となる政府にとっては不利なものでした。
4月23日、憲法が公布されました。それは、国家評議会を上院、国会を下院とし、両院に立法発議権を認めはするものの、専制君主たる皇帝の立法・行政権の方が優位に立つという、立憲専制体制を宣言するものでした。
憲法発布の4日後、国会が開会しました。政府にとって、この国会はいわば左派勢力の議場となってしまいました。反政府勢力の国会での勝手な審議を許そうとしなかった政府は、わずか2ヵ月あまりで、これを解散させてしまいました。
国会解散とともに、内相ストルィピンが首相に就任しました。ストルィピンの政策は、まず、社会を安定させ、その後に、地方行政の近代化、市民的自由などそれまでに提起されていたさまざまな改革を断行しようとするものでした。
このために、治安を脅かす全ての活動を根絶しようとしました。革命運動は仮借なく弾圧され、絞首台は、「ストルィピンのネクタイ」と評されたほどでした。
一方、ストルィピンが改革の柱と考えていたのが、土地改革でした。1906年11月の勅令によって、農民が私有地を持つことを可能し、散在している土地をひとつにまとめあげて独立した農場を創出することを奨励しました。それは、ヨーロッパ型の独立個人農を育成するという直接的なねらいもありましたが、農民社会を皇帝専制体制を支え革命の防波堤としようとする考えもありました。
しかし、この土地改革には多くの農民が強く抵抗しました。農民の共同体意識は強く、土地整理に反対して、測量を力ずくで妨害し、激しい流血の衝突が起こることもありました。結局、1914年の時点でも、土地改革によって農民の所有地となったのは全体の2割にも達していませんでした。
他方、この時期、ロシアの経済は、南部の重工業を中心に活況をみせていました。 |