サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

 10月革命
 臨時政府には、歴史家としても有名なミリュコーフが外相として、またモスクワの資本家コノバーロフが商工相として、ペトログラード・ソビエトの副議長でエス・エルのケレンスキーが司法相となって入閣していました。臨時政府は、新政府の方針として、政治犯の大赦、言論・出版・集会・結社の自由、身分の廃止、宗教的・民族的差別の撤廃などを実現するとしました。しかし、戦争は勝利をえるまで続行することを宣言しました。資本家たちにとって、この革命は、戦争を障害なく遂行するためのものに他ならなかったのです。 これに対して、ペトログラード・ソビエトは、無併合・無償金の講和を実現することをめざすアピールを発しました。この考えは、外相の方針と対立し、ペトログラードの兵士の主導によるデモなどによって、外相は辞任に追い込まれました。
 この危機に臨時政府は第2次内閣を組閣し、ソビエト内の主流派を入閣させて乗り切ろうとしました。新内閣で陸相となったケレンスキーは、ロシアの国際的地位を上げることを狙って、民衆の反対にもかかわらず、戦線で夏期攻勢に出ました。結局、夏期攻勢は失敗し多数の犠牲者を出しました。
 一方、農民は土地の再分配を熱望していましたが、臨時政府はこの問題に明確な方針を打ち出せませんでした。また、ウクライナでは、2月革命の直後にウクライナ中央ラーダを成立させて、自治を要求していましたが、臨時政府はこれを拒否していました。
 こうした中で、経済状況の悪化、食糧危機、土地問題など、民衆の求める問題に対処せず、戦争を継続するだけの臨時政府に対し、民衆は不信感を抱くようになっていきました。そして、労働者、農民、兵士たちは、これらの問題を解決するのはソビエト以外にないと考えるようになっていきました。
 しかし当初、ソビエト側から明確な方針を提示することは出来ませんでした。ペトログラードのボリシェビキを指導していたカーメネフやスターリンは、臨時政府を条件付きで支持し、メンシェビキやエス・エルの穏健派と連携しようとしていました。4月に亡命先のスイスから帰国したレーニンは、戦争継続に断固反対し、ボリシェビキがソビエト内の多数派となって、ソビエト権力の樹立をめざすべきであることを主張しました。レーニンのこの方針は、ボリシェビキの中でもすぐには賛同をえることが出来ませんでした。
 7月、ペトログラードの兵士の主導によって、ソビエト権力を要求する武装デモが行われました。これは、ボリシェビキ指導部も時期尚早として中止させようとしたものでしたが、押し切られ、平穏に努めようとしました。このデモは、政府によってボリシェビキの陰謀とみなされ、弾圧されることになりました。レーニンはフィンランドに身を隠しました。しかし、ボリシェビキは非合法化されず、ソビエト内部での地位を保ちました。強硬派の首相と司法相は、これに抗議して辞任しました。
ペトログラードの街頭で市民に手をふるケレンスキー 1917年
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