サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

 第3次臨時政府は、ケレンスキーが首相となりました。が、最高総司令官に任命されたコルニーロフは、ケレンスキーと対立し、軍事独裁政権をめざすクーデタを画策。8月の終わりには、将軍クルイモフに命じて、ペトログラードへの進撃を開始しました。大臣がコルニーロフを支持して次々に辞任し、この時点で、ケレンスキーには、ソビエトしか頼れるものがいない状態になっていました。
 ソビエトは、一丸となってコルニーロフ軍を迎え撃ちました。その活動の中心となったのはボリシェビキでした。クーデターは鎮圧され、8月末、クルイモフは自殺し、コルニーロフは逮捕されました。この経験は、民衆の間にソビエト権力を求める声をさらに強めることになりました。同時に、コルニーロフを支持したブルジョワ政党の権威を失墜させるものともなりました。
 9月になって、基盤の建て直しを計ろうとする臨時政府は、民主主義派会議を開き、共和国評議会(予備議会)を発足させて、ケレンスキー首相のもと第4次臨時政府を成立させました。しかし、これは民意から大きく離れたものとなり、臨時政府の命運は、もはや尽きていました。
 2月革命勃発までレーニンと対立していたトロツキーは、5月にニューヨークから帰国しペトログラード・ソビエトに加わり、中間派の指導者として直ぐに頭角を現し、雄弁な演説家として絶大な人気をえました。そして、7月には、レーニンの説得を受け入れてボリシェビキ党に入党し中央委員となっていました。
 潜行中のレーニンは、9月、臨時政府を打倒するための武装蜂起の決行を提案しました。古参の党幹部は強く反対しましたが、ペトログラード・ソビエト議長に選ばれたトロツキーは、レーニンの意見を支持し、その方針を公然と演説して回りました。舞台裏に隠れたレーニンに対し、トロツキーは表舞台の司令官として、労働者、兵士、大衆を指揮し、権力掌握の実行を担うことになりました。
 10月、ペトログラードに戻ったレーニンが出席した党中央委員会は、武装蜂起を日程に上らせました。それは、第2回ソビエト大会を召集し、それに権力を移行させる、というトロツキーの考えで進められました。
映画「十月」(1927年 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督)より
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