サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

ペトグラード市内のスモーリヌイ女子学校には革命本部がおかれた(1917年11月) 10月12日、軍事革命委員会が設置されました。これは、ソビエトを反革命から守るとの名目で革命軍を動員、指揮するためものでした。軍事革命委員会は、首都の各部隊を自ら指揮下に収めようとして、ペトログラード軍管区司令部と衝突しました。24日朝、臨時政府はボリシェビキを攻撃しました。しかし、24日中にペトログラードの重要拠点は、ボリシェビキ側に制圧されてしまいました。臨時政府は冬宮への篭城を余儀なくされてしまいました。24日夜半から25日にかけて、トロツキーの指揮下、武装した労働者、兵士、水兵は、冬宮を襲撃しました。これには何万人もが参加しましたが無血でした。
巡洋艦オーロラ号(1917年11月7日オーロラ号の砲撃を合図に冬宮への攻撃が始まったと伝えられている。この現在のオーロラ号は、往時を復元したものでペテルブルグ川岸通りに係留されて海軍中央博物館の分館となっている。) 10月25日(新暦11月7日)、軍事革命委員会は臨時政府が打倒されたことを宣言しました。ケレンスキーを除く臨時政府の閣僚全員は逮捕されました。ケレンスキーは、女装してアメリカ大使館の車で脱出していたのです。
 10月25日、蜂起が進行する中で開かれた第2回ソビエト大会は、銃声によってしばしば中断し、ソビエト右派は武力による政権奪取を非難して大会から退場しましたが、残ったボリシェビキと左派エス・エル党などによって、ソビエト権力の樹立を宣言しました。そして、行動綱領を説明するアピール、民主的な講和の即刻開始、土地の私的所有を無効とする布告をレーニンの提案によって可決しました。
映画「十月」(1928年 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督)より ソビエト大会では、新しい政府の目標については一致したものの、機構については、左派エス・エル党に参加を拒否されてしまいました。そこで、ボリシェビキの単独政府とする案を示したところ、他党すべてが反対しました。このため単純多数で、臨時の労農政府として人民委員会議が作られました。各人民委員会は政府の省に相当するもので、人民委員会議はこれを統括するものです。従って、人民委員会議議長は首相にあたりますが、レーニンがこれに選ばれました。また、人民委員にはトロツキーやスターリンなどボリシェビキだけが選ばれました。
 首都を脱出したケレンスキーは、将軍クラスノフのコサック軍を率いて反撃してきましたが、ペテルブルグ郊外のプルコボで敗れました。ケレンスキーは、翌年、フランスに亡命しました。また、数日にわたったモスクワの大戦闘でも反革命軍が敗れました。11月に入ると、プスコフとミンスクでもソビエト権力が樹立されました。キエフではウクライナ中央ラーダとソビエトが協力して、臨時政府側の軍管区司令部を倒し、ウクライナ人民共和国の成立を宣言しました。こうして10月革命は勝利しました。
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