サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

1920年代

 すでに1918年に共産党と名称をかえていたボリシェビキ党は、国内戦の過程で一党独裁を強化していきました。しかし、「戦時共産主義」は、農民の強い抵抗を引き起こしていました。1910年に190万人を数えたペトログラードの人口は、 国内戦の時代に3分の1に減っていました。
 1921年3月、国内戦にようやく勝利した共産党は第10回党大会を開きました。レーニンは、それまでの厳格な政策をあらためて、新経済政策(NEP)を開始しました。農民の穀物生産意欲を高めるために、強制徴発をあらためて現物税制を導入し、また商工業への直接の統制を緩めて、限られた範囲で私企業を認める方向へと政策を転換したのです。また、非政治的なものであれば、さまざまな社会団体が活動を認められました。こうして、第1次世界大戦や革命の混乱で疲弊した国の立て直しに着手したのです。資本主義的な方法を部分的に許容したこの新経済政策は、やがて1927年までには、ソビエト経済に復興をもたらし、農業・工業ともに戦前の水準にまで回復させることができました。
レーニンとスターリン 1922年、レーニンとスターリンは、ソビエトの国のあり方を巡って意見が対立していました。スターリンは、各共和国を自治共和国としてロシア共和国に吸収するとし、レーニンは、全ての共和国が同等の権利を持つソビエト同盟を結成するとの考えを持っていたのです。
 そうした中、1922年5月、レーニンは脳卒中の発作に襲われました。さらに10月には、2度目の発作を起こし、政府や党内での積極的役割を期待することはできなくなりました。この年の末までには、いくぶん回復して、スターリンが民族問題の処理で見せた排外主義を批判しました。そして、スターリンを党書記長のポストから解任せよとの指示を書きました。しかし、スターリンに謝罪か絶縁かの選択を迫る手紙を口授した直後の1923年3月、レーニンは再び大きな発作起こして、言語機能を失ってしまいました。1924年1月26日、レーニンは亡くなりました。
トロツキー レーニンが1922年5月に発作に倒れて政治指導から身を引いたとき、トロツキーがその後継者と目されていました。しかし、ジノビエフ、カーメネフ、スターリンの三人組が立ちはだかり、1925年には、トロツキーは軍事人民委員を解任され、26年には党政治局からも降ろされました。その後、一国社会主義論を巡ってスターリンとブハーリンが提携し、ジノビエフ、カーメネフ、トロツキーが組んだ合同反対派は完全に失脚しました。トロツキーは、スターリンによって1928年に中央アジアのアルマ・アタに流され、29年にはソビエト連邦から追放されました。亡命者となったトロツキーは、トルコ、フランス、ノルウェー、メキシコと流浪し、1940年8月、メキシコのコヨアカンで暗殺されました。
 1924年、レーニンの死去にともない、ペトログラードは、レーニンの名を冠してレニングラードと改名されました。首都はすでに移転し、政治の舞台はモスクワとなっていましたが、1930年頃まで、学術、文化、芸術の面では、レニングラードがソビエトの中心であり続けました。
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