サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

1930年代 大粛清とファシズムの脅威

映画「わが友イワン・ラプシン」(1982年 アレクセイ・ゲルマン監督)より 急激な工業化や強引な農業の集団化は、ソビエトの社会の弱い所から矛盾を噴出させました。1932年〜33年は、凶作にもかかわらず農村からの穀物調達が続けられ、数百万人の餓死者が出ました。1934年には、農業生産は回復し、安定した社会が到来することが期待されていました。
 1934年に開かれた第17回共産党大会は、「勝利の大会」と呼ばれ、スターリンを中心に進めてきた変革が成就したことを確認しました。同時に旧反対派が自己批判して、和解の兆しが見えました。一方、スターリンに忠実な党員や指導者の中にも国内の緊張を緩和して正常化を求める声があり、レニングラードの党書記セルゲイ・キーロフは、この大会で積極的な発言を行いました。キーロフは、大会の後、党の中央委員会の書記に選ばれ、正常化のシンボルとなりました。
 この年の12月、そのキーロフが、レニングラードで暗殺されました。スターリンは、この事件の背後には、かつてレニングラードを支配したジノビエフらの旧反対派がいるとして、ジノビエフ、カーメネフらを逮捕しました。この後も、スターリン配下の内務人民委員のエジョフやベリヤによって、ジノビエフのような反対派だけでなく、共産党のかつての指導者や忠実な党員たちが、ソビエト国家の転覆を計ったとして処刑されました。また、赤軍の高官たちも、ドイツや日本の手先として秘密裁判にかけられて処刑されました。さらに、諸団体の指導者や知識人、企業の幹部らも粛清の対象となっていきました。この結果、スターリンによる個人独裁体制ができあがりました。しかし、"大粛清"で、投獄されて、シベリアに流刑されたり処刑された犠牲者の数は、数百万人にのぼるといわれ、ソビエト体制にとって大きな損失となりました。
 一方、世界的に見ると、1930年代はファシズムの脅威が迫っていた時代でした。満州への侵略戦争を起こした日本は、1932年に満州国を成立させ、やがてそれは日中戦争へと発展していきました。ドイツでは、1933年にヒットラーによるナチス政権が誕生し、ヨーロッパの情勢を不安なものにしていきました。さらに、1936年には日独防共協定が結ばれ、同じ頃、スペインでは人民戦線政府が誕生したものの内戦が始まりました。
 こうした情勢は、ソビエトを西と東から挟み撃ちにされるという恐怖を生み出しました。国益を守ろうとするスターリンは、1939年、反ファシズムの旗を下ろし、ナチス・ドイツとの間に不可侵条約を結びました。やがて、ドイツがポーランドに侵入して、第2次世界大戦の幕が切って落とされると、ソビエト軍はポーランド領の東半分を占領し、ドイツとの間に友好境界条約を結びました。さらに、レニングラードの安全を確保するとの名目で、対岸のフィンランドとの戦争を起こしたスターリンは、国境地帯を割譲させ、旧ロシア帝国領であったバルト海沿岸の3国をソビエト連邦に併合するなど、強引な領土拡張を進めました。
▲映画「わが友イワン・ラプシン」(1982年 アレクセイ・ゲルマン監督)より
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