サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

第2次世界大戦 レニングラード攻防戦

映画「レニングラード攻防戦」(1974年 ミハイル・エルショフ監督)より 1941年6月22日、日曜日、モスクワ時間午前3時15分。ナチス・ドイツ軍がソビエト領内に進入してきました。この時までに、ドイツはヨーロッパのほとんど全土に支配を及ぼしていました。スターリンは、人民委員会議長(首相)となっていましたが、ドイツのソビエト攻撃を示すいくつかの事実が明らかになっていたにもかかわらず、ドイツ軍が侵入してくるとは思っていませんでした。国境に300万をこえるドイツ軍がソビエト攻撃の作戦配置についていた時点でも、ソビエトは、ほとんど無警戒の状態だったのです。
 ドイツ軍は、この戦いを"バルバロッサ作戦"と呼び、ロシアの冬が訪れる前に電撃戦として決着をつけようとしていました。北方、中央、南方の3個軍集団からなるドイツ軍は、バルト海から黒海までの1600kmの戦線で、一斉にソ連領に向かって進撃を始めました。バルバロッサ作戦の戦略目標は、北海のアルハンゲリスクからカスピ海のアストラハニまでの地域を占領することでした。攻略目標は、北方軍集団がレニングラード、中央軍集団はモスクワ、南方軍集団はキエフと定められ、これに向かって進撃を続けました。
映画「レニングラード攻防戦」(1974年 ミハイル・エルショフ監督)より 緒戦はヒトラーの思惑の通りに進み、不意を突かれたうえに兵器や将兵の質も劣ったソビエト軍は、敗北を重ね、退却を続けました。大粛清によって、赤軍が極度に弱体化してたことも大きく関係していました。
 7月中旬には、ドイツ軍は、スモレンスクにまで達しました。9月には、北部ではレニングラード近郊に達し、南部ではキエフが陥落しました。ここで、ヒトラーは軍首脳の反対にも関わらず、天然資源の豊富なウクライナとカフカス地方の占領を優先し、モスクワ攻撃を後回しにすることにしました。
 ドイツ軍は、政治、戦略、経済のうえで重要なソビエト第2の都市レニングラードに対しては、完全に包囲して兵糧攻めで攻略する作戦をとりました。まず、1941年9月中旬、陸上交通が遮断されました。続いて、11月上旬には隣接するラドガ湖の海上交通も遮断されて、完全包囲となりました。これによって、300万人以上といわれる市民が戦争に巻き込まれることになりました。
 この年は、例年にない寒波がレニングラード地方を襲い、市民は寒気と飢餓、病気によって悲惨な状況に置かれることになりました。1日に2万人が死亡したこともあるといわれています。後に首相となったコスイギンは、この時、市長職にあたる市執行委員会議長で、50万人の市民を疎開させました。また、作曲家のショスタコービチは、包囲された市内に残って、困難な状況の中、交響曲第7番「レニングラード市に捧ぐ」(1941)を作曲して、人々から多大な称賛を受けました。
▲映画「レニングラード攻防戦」(1974年 ミハイル・エルショフ監督)より
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