サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

 1941年10月2日、ドイツ中央軍集団はモスクワ攻撃を再開しました。12月上旬には、モスクワ近郊に到達し、1部隊はモスクワから32kmにまで肉薄しました。しかし、短期決戦体制のドイツ軍には冬季戦の準備がなく、攻撃はここで中止されました。
映画「レニングラード攻防戦」(1974年 ミハイル・エルショフ監督)より 一方、スターリンはモスクワに留まって対決の決意を示しました。そして、民族意識に訴えて本格的な戦争指導を始めました。ドイツ軍の進撃が停滞すると、スターリンは1941年12月5日に総反撃を命令しました。軍司令官ジューコフ将軍は、シベリアからの援軍を得て、戦力の低下したドイツ軍に対し全戦線で攻勢に転じました。対するドイツ軍は、ヒトラーから死守命令を受けてソビエト軍の攻勢を阻止し、レニングラード包囲とウクライナ、クリミアでの作戦を続行しました。ヒトラーの短期決戦での勝利は夢と破れ、東部戦線は泥沼のような持久戦となってしまいました。
 1942年春には、またドイツ軍が、ソビエトの南部に大攻勢をかけてきました。この年の9月に始まったスターリングラード攻防戦は、熾烈な市街戦となって、ソビエト軍は陥落の一歩手前まで追い込まれましたが、翌年2月にドイツ軍は降伏しました。ソビエトの生産も回復し、この勝利以後、ソビエトは反撃に移ることになりました。
映画「レニングラード攻防戦」(1974年 ミハイル・エルショフ監督)より しかし、レニングラードはこの間もドイツ軍に完全に包囲され続けました。約900日の持久戦の末、1944年1月、ソビエト軍によってレニングラードは解放されました。激しい戦闘、病気、飢餓により、およそ125万人の市民が死亡し、1万をこえる建物が全壊もしくは半壊したといわれています。レニングラードは、第2次世界大戦中の市民を巻き込んだ激戦の都市のひとつとして歴史に記憶されることになりました。
 1943年暮れには、ソビエト軍はドイツによって占領された領土の2/3を解放していました。そして、軍はベルリンを目指しました。1945年1月、ソビエト軍は大攻勢をかけ、東プロイセン、ワルシャワ、ブダペストを突破して、4月下旬、ベルリンに入城しました。4月30日、ヒトラーは自殺し、独ソ戦は終了しました。
 ソビエトでは、ナポレオンとの戦いを「祖国戦争」と呼んだことに習い、この独ソ戦を「大祖国戦争」と呼びました。ヨーロッパ・ロシアの大半を約3年間戦場としたこの戦争は、死者約1600万人、1700の都市と町、7万の村が破壊されたといわれる膨大な被害をソビエトにもたらしました。そして、ソビエト国民の戦時下の暮しも過酷なものにしました。
 第2次大戦後、レニングラードなど破壊された都市は、国の計画で再建が進められることになりました。
▲映画「レニングラード攻防戦」(1974年 ミハイル・エルショフ監督)より
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