サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

第2次大戦後のレニングラードを襲った不幸な出来事

 1945年5月8日にドイツが無条件降伏して、第2次世界大戦のヨーロッパでの戦争は終わりました。この後、ソビエトは、ヤルタ会談でスターリンが約束した秘密協定に従って、ドイツ降伏の3ヵ月後に日本に宣戦布告しました。そして、中国東北部、朝鮮半島北部、千島列島、サハリン南部を占領しました。
 大戦後、東ヨーロッパの諸国や中国、北朝鮮などが社会主義の国として独立し、ソビエト連邦は、こうした国々を勢力圏に収め、アメリカと並ぶ強国と考えられるようになりました。米ソは協力して国際連合を創設しましたが、やがて激しく対立するようになり"冷戦"の時代がやってきました。
 第2次世界大戦後、レニングラードは"英雄都市"の称号を与えられ、都市の復興は国家的規模で進められ、歴史的建築物は綿密に復元されました。
 一方、文化面では、戦争中に自主性を高めた民衆や知識人を再統合して体制のゆるみを引き締めるために、統制が加えられるようになりました。1946年8月、党中央の理論家ジダーノフは、レニングラードの詩人アフマートワ、小説家のゾーシチェンコ、彼らの作品を掲載した文芸雑誌「レニングラード」と「ズベズダ」を厳しく批判し、彼らを作家同盟から追放しました。これは"ジダーノフ批判"と言われますが、これをきっかけに、哲学・歴史学界、作曲家のショスタコービチ、プロコフィエフ、ハチャトゥリヤンらの作品、映画「偉大な人生」などにも批判の矢が向けられ、芸術や文化の諸分野に対してイデオロギーの統制と弾圧が始まりました。
 さらに、1949年には、レニングラードの党幹部らが、あいまいな容疑で根こそぎ逮捕されて、処刑されるという"レニングラード事件"が起きました。歴史的にみてもレニングラードは、ヨーロッパを志向してきた都市でした。ここから多くのコスモポリタンが登場したことは事実とは言え、この二つの事件は、文化、政治を問わず、いわゆる"レニングラード派"が全て親西欧的あるいはコスモポリタニズム的偏向を持つ、と考えられた結果の不幸な出来事でした。また、妄想にかられたかのように、自らの周囲に敵を見出したスターリンの晩年を象徴する事件だったとも言えます。
 1952年に13年ぶりの第19回共産党大会が開かれました。スターリンは、ここで、全世界の共産党の代表たちから"偉大な指導者"と称えられました。しかし、スターリンの偏執狂的とも言える警戒心は極まり、クレムリン病院の医師団たちによる要人暗殺計画があったと思いこみ、1953年1月、"ユダヤ人医師団事件"を引き起こしました。これは、戦前のキーロフ事件やその後の大粛清の時代を連想させ、ソビエトの人々に緊張が高まりました,そうした中、1953年3月2日、スターリンは自室で発作に倒れて意識を失い、3日後に死去しました。
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