サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

フルシチョフの時代と"雪解け"

 スターリンという独裁者の死は、ソビエトに大きな変化をもたらすことになりました。全国の農業の指導を中心に活動し、スターリンの死後、中央委員会第1書記に就任したフルシチョフ、スターリンの指名した後継者マレンコフ首相、粛清を実行してきたベリヤ政治警察(KGB)長官らによる集団指導体制が形作られました。しかし、すぐに権力闘争が始まり、"ユダヤ人医師団事件"がでっち上げであったことを明らかにしたベリヤが逮捕されました。KGBの政治力を強化して、政治の実権を握ろうとしたベリヤをフルシチョフとマレンコフが結んで失脚させたのです。
 1953年9月の党中央委員会総会で、フルシチョフ、マレンコフ、モロトフらによる集団指導体制が敷かれました。フルシチョフは農業の行詰りを大胆に告発して信頼を集め、処女地開墾のキャンペーンを進めました。フルシチョフは、さらに、党内での支配力をかため、1955年にはマレンコフを首相から解任しました。
 1956年2月、第20回党大会で、フルシチョフは、秘密報告として知られる報告「個人崇拝とその結果について」を行いました。それは、スターリンによる党規範の破壊、忠実な幹部の粛清、独ソ戦開始期の外交および戦争指導の誤り、多数の無実の人々に対するテロル、などを告発するものでした。この報告はアメリカ国務省により公表され、全世界に衝撃を与えました。特に、それまでスターリンを偉大な指導者としてきた世界の共産主義運動に動揺を与え、ポーランドでは改革派のゴムルカが政権につき、ハンガリーでは10月に反ソ蜂起が起こり、ソ連軍が介入する事態を招きました。また、中ソ対立の原因ともなりました。
 しかし、国内ではこの非スターリン化の動きにより、無数の人々が強制収容所(ラーゲリ)から釈放され、また死後ながら名誉を回復することになりました。
 1957年には、モロトフ、カガノビチらスターリン時代からの指導者が、フルシチョフを追落そうとして逆に失脚をした、反党グループ事件が起こりました。フルシチョフは幹部会から彼らを追放して、その地位は盤石なものとなりました。1958年にはブルガーニンから首相の職を取り上げ、党第一書記も兼任する最高指導者となりました。
 フルシチョフは、1961年の第22回共産党大会で、再度、スターリン批判を行い、新しい綱領を採択して、共産主義社会への前進を謳い上げました。スターリンの遺体がレーニン廟から除かれ、強制収容所を描いたソルジェニーツィンの「イワン・デニーソビチの一日」もはじめて公表されました。こうして、1950年代の後半から1960年代には、革新的で楽観主義的な気分が、ソビエトの社会の中に流れていきました。
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