サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行>歴史と文化の都、サンクト・ペテルブルグ

 1954に発表されたイリヤ・エレンブルグの中編小説「雪どけ」は、田舎町の人々を主人公に、スターリンの死後に訪れたささやかな社会の変化や、彼らの生活感情を描いた作品でした。この小説は、1954年末の第2回ソビエト連邦作家大会では、厳しい批判を受けてしましましたが、西側の世界では、この題名をフルシチョフの時代に見られた緊張緩和を意味する言葉として使うようになりました。
 "雪解け"は、歴史と文学で先行しました。哲学的叙事詩「遠い、遠いかなた」(1950〜60年)で知られるトワルドーフスキーが編集長となった文芸誌「ノーブイ・ミール(新世界)」は、非スターリン化路線の推進母体となって、ドゥジーンツェフの長編「パンのみに生きるにあらず」(1956年)、をはじめ、ソルジェニーツィンの「イワン・デニソビチの一日」(1962年)などが発表されました。また、"雪どけ派の詩人"と呼ばれる若手詩人が続々と輩出し、「スターリンの後継者たち」(1962年)のエフトゥシェンコや、ボズネセンスキー、アフマドゥーリナ、オクジャワなどが問題詩を次々に発表しました。さらに、長編小説「星の切符」(1961年)のアクショーノフらの"怒れる若者たちの世代"がこれに続きました。
 映画の世界でも、「戦争と貞操(鶴は飛んでゆく)」(1957年 ミハイル・カラトーゾフ監督)、「誓いの休暇」(1959年 グリゴーリー・チュフライ監督)、「人間の運命」(1959年 セルゲイ・ボンダルチュク監督)、「僕の村は戦場だった」(1962年 アンドレイ・タルコフスキー監督)など、新しい感覚、新しい才能が一挙に登場してきました。また、彼らの指導者ともいえるミハイル・ロンム監督の「一年の九日」(1961年)も発表されました。これらの作品は、国際的な賞を獲得して世界の注目を集め、新しいソビエト映画の誕生を印象づけました。
 しかし、一方では締め付けもあり、パステルナークの小説「ドクトル・ジバゴ」(1954〜56年)は、ソビエト国内では刊行することが許されず、イタリアで出版されました。1958年にノーベル文学賞授賞が発表されると、ソビエト国内では、作家同盟からの除名などパステルナークを攻撃する大キャンペーンが起こり、「ロシアにとどまりたい」という本人の願いから受賞の辞退に追い込まれました。
 また、映画の世界でも「私は20歳」(1964年 マルレン・フツィーエフ監督)の公開を巡る当局とのトラブルがあり、"雪解け"の終わりを象徴する事件となりました。
 フルシチョフは平和共存を唱えて、自ら訪米するなど、西側諸国との緊張緩和をはかりました。しかし、1960年代にはいって米ソ関係は次第に緊張していきました。1962年のキューバ危機では、ソビエトがキューバに配備した核ミサイルの撤去をアメリカが迫り、両国の核兵器による最終戦争の勃発すら考えられるほどの緊張が、世界を震えさせました。数日の緊迫の後、結局、ソ連は撤去に同意し、危機は去りました。
 この事件によって、それまで、核兵器に依拠した防衛を唱えて、軍と敵対していたフルシチョフの弱腰外交が糾弾されることになりました。また、農業政策も欠陥を露呈するようになり、フルシチョフの権威を失墜させていきました。さらに、1962年の党機構を工業と農業担当に分割する改革は、党の幹部たちから強い反発を招きました。
 1964年10月、クリミアで休暇をとっていたフルシチョフは、突然、呼び戻され、部下たちによって辞職を強いられました。年末にはすべての役職を解かれ、1966年には党中央委員会からも追放されました。
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