アレクサンドル1世の後を受けて即位したニコライ1世は、デカブリスト運動を徹底的に弾圧して、皇帝による専制体制の整備を計りました。また、ヨーロッパで産業革命が進行している中で、ロシアの工業化を振興しようとしました。対外的には中東での覇権とヨーロッパの安定を追及しました。さらに、ニコライ1世の晩年には、アメリカがペリーの艦隊を日本に派遣することを知ると、日本との国交樹立をめざして、プチャーチンを世界一周の航海に出発させました。
こうした中で、ロシアはかつてなく安定した時代を迎えますが、知識人たちにとって、それは「時代閉塞」の印象を与えるものでした。文学が飛躍的に開花し、やがて政治化した知識人のサークルも現れるようになります。
1848年、フランスで2月革命が起きると、ニコライ1世は「ヨーロッパの憲兵」として働き、ハンガリー革命軍を一蹴してしまいました。革命の影におびえるヨーロッパの王国にとって、ロシアは、頼もしい存在となりました。しかし、ロシア国内の知識人たちにとっても、この革命は刺激材料となりました。ペテルブルグのペトラシェフスキーのまわりに集まった人々の中から、社会主義を志向する者も現れるようになっていったのです。
これに対し、当局は弾圧に乗り出し、1949年、ペトラシェフスキーのグループを一斉に検挙し、21名に有罪判決を下しました。この中には当時、新進作家だったドストエフスキーもいました。
この時代の中で、ロシア文学の扉を開いたのは、プーシキンでした。ニコライ1世は1826年に秘密警察を設置し検閲法を制定して、デカブリストなどの革命運動を封じ込めようとしましたが、その一方で流刑中のプーシキンを首都へ呼び出して、尋ねました。「デカブリストが反乱をした日に首都にいたらどうしたか?」これに対しプーシキンは「反乱の仲間に加わっていたと思う。」と応えました。皇帝は、考え方を変えるように求め、プーシキンはそうすると言いました。この後、プシーキンは流刑を解かれ、秘密警察の監視にも関わらず数々の名作を書き上げることになりました。1832年、決闘で命を落とすまでに、文章としてのロシア語を磨きあげ、数々の古典的名作を残したプシーキンは、ロシア国民文学の父と呼ばれています。そして、このプーシキンの開いた道から文豪と呼ばれる数多くの作家が登場することになるのです。 |