1861年の農奴解放は、大量の労働力を都市に流入させることになりました。サンクト・ペテルブルグの人口は、1869年には67万になっていました。1870年代になると、徐々に進行するロシアの資本主義化の中で、不安にかられた知識人たちの中から、社会主義をめざす「ナロードニキ運動」が生まれました。この運動に触発された学生たちの中には、職人や労働者に身をやつして農村に向かい、革命工作をする者もありました。しかし、農民はこれを拒絶しました。その後、郷書記や補助医などとして農村に定住して、工作活動を行う人々もありましたが、政府の弾圧によって定住地は崩壊してしまいました。
1875年、ボスニア・ヘルツゴヴィナの反乱は、ロシアとトルコの戦争へと発展しました。ロシアは、このとき国民皆兵の徴兵制度に軍を強化しており、戦争はロシア軍の勝利となりました。しかし、戦後の講和で、領土拡大をめざすロシアに対し、イギリスなどが介入して譲歩を強いられ、外交的には敗北した形となりました。こうした情勢にロシア国内の世論は沸騰しました。
一方、先鋭化したナロードニキ運動は、テロによって専制権力と対決するという志向も生まれていました。この中から、皇帝暗殺をめざす「人民の意志」党が結成されました。「人民の意志」党は、1879年にはお召し列車爆破、1880年には冬宮を爆破して、皇帝を震撼させました。さらに皇帝政府にとって深刻だったのは、このテロに対して民衆が中立的だったことでした。政府は、専制を制限する改革に着手しようとしましたが、1881年3月、アレクサンドル2世は、「人民の意志」党員にサンクト・ペテルブルグの路上で爆弾を投げつけられて死亡しました。
1882年、アレクサンドル2世が暗殺された現場であるエカチェーリーナ運河沿いに、血の上の救世主教会の建設が着工されました。 |