アレクサンドル2世の暗殺は、ロシアの農民に農奴制が復活するのではないか、という猜疑心をもたらしました。それは、やがて集団的な恐怖心となり、ユダヤ人を襲撃するという事態へと発展していきました。ユダヤ人襲撃はポグロムと呼ばれていますが、このポグロムを当時の革命家たちが指示したことは、「人民の意志」党を解体させることになりました。
やがて、国外へ亡命したナロードニキの中から、マルクス主義を受け入れる人々も現れるようになり、1890年代には、ナロードニキとマルクス主義者が論争を繰り返すことになります。マルクス主義の論客の中には、若き日のレーニンもいました。
アレクサンドル2世の後を受け継いだのは、アレクサンドル3世でした。アレクサンドル3世は、ユダヤ人抑圧を政策とする一方で、愛民政策を推進しました。それは、前帝の大改革で生じた不満や矛盾に対応しようとするものでした。19世紀後半のロシアは、貴族反動の時代とも言えますが、安定した帝政権力のもとで近代化が本格的に動き始めた時期でもありました。鉄道建設に代表されるように、工業の資本主義化が進みました。
サンクト・ペテルブルグも19世紀後半に港湾施設が整備されると、産業も発達しました。これによって、労働人口も急激に増えました。1900年のサンクト・ペテルブルグの人口は143万に膨れあがっていました。
1894年、アレクサンドル3世は49歳で没し、26歳のニコライ2世が即位しました。1896年、モスクワでニコライ2世の戴冠式が行われました。この時の様子は、誕生したばかりの映画に記録され、世界映画史上に初のルポルタージュとして記録されることになりました。しかし、この戴冠の祝賀集会に集まった民衆が押しつぶされて、1398人もの死者が出たにもかかわらず、舞踏会が何ごともなかったかのように挙行されたことには、内外から非難が浴びせられました。さらに、戴冠式祝賀の休業分の賃金支払いを巡って、サンクト・ペテルブルグの労働者がストライキを行う事態も起きました。 |