ロシア映画社>特別企画>建都300周年記念「サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行」

□■ピョートル大帝が作った新首都■□
ピョートル1世(大帝) 彼は、時として狂暴な性格を見せながらも、少年期から西欧の科学、わけても海事に関心を寄せ、1697年には300人の大使節団をヨーロッパに派遣した。ピョートル自身も匿名でこの使節団に同行して、造船所では、職人らと共に働いたという。 17世紀末、北東ヨーロッパを制していたのは、スウェーデンでした。これに対し、バルト海南岸など大幅な領土の割譲と貿易の利権を失ったロシアなど近隣の諸国は、スウェーデンとの対決を画策していました。この時期、ロシアでは、ピョートル1世が統治者となっていました。ピョートルは幼い頃から、首都モスクワの外国人居住区に出入りし、その交友関係から先進ヨーロッパの科学技術に魅せられ、ロシアを西欧化し近代国家にするという夢を抱いていました。ヨーロッパとの海運に白海や北極海の荒波を渡るしかないという状況を打ち破って、バルト海に進出することがピョートルの目標となりました。
カール12世 1697年、スウェーデンでは、弱冠15歳のカール12世が即位します。このカール12世は、衣服は質素、小食早食、寝床にはシーツも毛布もなく、唯一の高価な持ち物は聖書、というスパルタ的生活をおくる人物で、「北方の獅子」と呼ばれた軍事の天才でした。
 1700年、ピョートル1世はスウェーデンの要塞ナルヴァへの攻撃を開始しました。しかし、機動力を誇るカール12世のスウェーデン軍は、3倍の軍勢のロシア軍を打ち破ってしまいます
。ピョートルは、農夫に身をやつして逃亡しました。
ピョートル大帝治下の「ひげ切り」政策。ヨーロッパ使節団の一行とともにロシアに帰国した直後、ピョートル1世は、大貴族たちの顎鬚を切り落とし、長いロシア服の裾を裁断させた。 
軍事力の強化をめざすピョートル1世は、西欧化の改革を推し進めた。その妥協なき実施は、彼の直情的な性格にもよるが、しばしば、大量の処刑や重税を伴い、貴族や民衆に反感を与えもした。
 しかし、勢いに乗ったカール12世が、ポーランドに攻め込んで手をこまねいている間に、ピョートルは体制を立て直し、リヴォニアやエストニアなどを徐々に占領していきました。また、国内の近代化を図る改革を次々と進めていきました。一方で、海軍力を強化してバルト艦隊を作ることを念頭において、新しい都をつくることを計画しました。建設地に選ばれたのは、1617年からその頃までスウェーデンに併合されていたネバ河口の荒れ果てた土地でした。
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