1919年、レーニンによって映画の国有化が宣言されました。さらに、1922年、ゴスキノ(中央国立写真・映画企業)が発足しました。1924年のレーニンの死去にともないサンクト・ペテルブルグは、レニングラードと改名されましたが、この時代には、市内に映画の製作と配給をする2つの機関が存在したこともありました。しかし、中央集権化が計られて、組織の改変や統合がめまぐるしく行われ、撮影所もセヴザプキノ工場、ゴスキノレニングラード工場、レニングラードキノ工場、ソフキノ・レニングラード映画工場などと1926年までに、ほぼ毎年のように発足と統合が繰り返されました。
1922年に結成された実験的な演劇グループFEKS(エキセントリック俳優工房)のメンバー、グリゴリー・コージンツェフとレオニード・トラウベルクは、ゴーゴリの「結婚」の舞台化に部分的に映画を挿入する演出を行い、撮影所を訪れました。これが縁となって、1924年、コージンツェフとトラウベルクは「十月っ子の冒険」を共同監督。以後、2人は"レンフィルム"の監督として共同で活動することになりました。この2人をはじめFEKSのメンバーは、映画製作に参加する一方で、映画芸術専門学校で講義するなど後進の育成にもあたりました。
1920年代半ばには、レニングラードの撮影所は、ソビエト国内で最大の映画製作機関になっていました。そして、国際的な関係を樹立したソビエト最初の映画機関として、映画をヨーロッパやアメリカに輸出していました。
映画芸術専門学校の卒業生、フリードリヒ・エルムレム監督の「魔街」(1926)はこの時期のヒット作で、日本でも1928年に公開されています。 |