ロシア映画社 > サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行 > 映画の都 レンフィルム

 撮影所の体制がひとまず整った1930年代、名称は、ソユーズキノ・レニングラード映画工場、ロスフィルム・レニングラード映画工場、ソユーズフィルム・レニングラード映画工場、1934年のレンフィルム・レニングラード映画工場と変遷しました。
「呼応計画」(1932) この間、レニングラードで開発されたトーキー・システム、"ショリノフォーム"がソビエト映画の標準方式として採用され、1931年にはソビエト最初のトーキー映画「女一人」(脚本・監督:コージンツェフ/トラウベルグ、作曲:ショスタコヴィッチ)が公開されました。さらに、「狙撃兵」(1931年 セミョーン・チモシェンコ監督)、呼応計画」(1932)、「生きる」(1932年 セミョーン・チモシェンコ監督)などの名作が生まれました。
 そして、1934年、"ワシーリエフ兄弟"の監督作品「チャパーエフが製作されました。この映画は大ヒットし、スターリンが賞賛したことから映画における"社会主義リアリズム"の手本ともされるようになりました。
 1935年には、第1回モスクワ国際映画祭が開かれ、「チャパーエフ」、「マクシムの青年時代」(1934年 コージンツェフ/トラウベルグ監督)、「農民」(1934年 エルムレル監督)の3作品を製作したレンフィル1934年、"ワシーリエフ兄弟"の監督作品「チャパーエフ」ムがグランプリにあたるレーニン賞を受賞しました。翌年には、レンフィルムは、映画工場から映画撮影所に昇格。1930年代初めにレニングラードにニュース映画撮影所が作られ、後には科学普及映画スタジオが作られて、1935年からレンフィルムは劇映画専門の撮影所となっていました。ここに、現代まで続くレンフィルムが出来上がったのでした。
 それまで、モスクワに4ヶ所あった劇映画の撮影所は徐々に統合され、1935年には、モスフィルムとして正式に発足しました。これによって、ソビエト最大の映画製作機関の座は、モスフィルムに譲ることになりましたが、レンフィルムは、コージンツェフ、トラウベルグ、エルムレル、"ワシーリエフ兄弟"ら実験精神に富んだ個性的な映画人を擁して、モスフィルとは一線を画した独自の道を歩むことになります。
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ソヴェート映画史−七つの時代
服部美術館・特別展「レンフィルムの映画を描く」
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