ロシア映画社 > サンクト・ペテルブルグを巡る映画紀行 > 映画の都 レンフィルム

 第2次世界大戦は、ソビエトの人々を祖国防衛に立ち上がらせ、映画も愛国的情熱にかきたてらて、ソビエト全体で百数十本の作品が製作されました。しかし、戦後、1940年代の後半は、またもスターリニズムが猛威を振るい、数千万とも言われる人々の命が犠牲となり、"社会主義リアリズム"の名のもとに、あらゆる分野の芸術が打撃を受けることになりました。
 映画省が設立され、映画大臣の推挙した作品をスターリンが見て「好きか、嫌いか」を判断するということが行われました。スターリンが否定的な見解を語れば、それによってその映画は作り直されたり、禁止されました。時には、スターリンがその映画をどう思うかで、映画作家の運命すらも左右されることもありました。
 こうして、1951年のソビエト映画の総製作本数のうち、劇映画はわずか8本にしかすぎない、という状況となってしまいました。もはや、映画作家たちは、作るべき映画を見失ってしまっていたのです。
 1953年、スターリンは死去し、新しいリーダーとなったフルシチョフによって「スターリン批判」が行われ、「雪解け」の時代がやってきました。
 映画の世界では、1950年代の半ばから、シュヴェイツェル、ボンダルチュク、チヘイゼなど、新しい世代の作家たちが一挙に登場してきました。彼らは、かつての巨匠たちが教壇に立った映画大学の卒業生たちでした。また、「雪解け」の時代は、巨匠たちも復活させ、ソビエト映画に新しい時代を到来させました。
 レンフィルムもこの時代に活況を取り戻し、コージンツェフやヘイフィッツらの巨匠たちの文芸映画が国際的にも高い評価を受けることになりました。人間の精神のあり様を見つめようとするレンフィルムの作家たちの伝統と気風は、文芸映画にふさわしいものだったともいえます。以後、文芸映画はレンフィルムのお家芸とも呼ぶべきものとなりました。
 さらに、音楽を重視する伝統からは、オペラ、バレエなどの映画化作品が生まれました。また、様々な志向を許しあう和気あいあいとした雰囲気は、スタジオに個性的な才能を呼び寄せることになりました。そして、レンフィルムは、商業映画から芸術映画までバラエティに富んだ作品群を提供しました。
●1950年代後半から1960年代のレンフィルムの代表的作品
ドンキホーテ(1957年 グリゴーリー・コージンツェフ監督)
外套(1960年 アレクセイ・バターロフ監督)
小犬を連れた貴婦人(1960年 イォシフ・ヘイフィッツ監督)
スペードの女王(オペラ映画 1960年 ロマン・チホミーロフ監督)
両棲人間(1961年 ゲンナージー・カザンスキー/ウラジーミル・チェボタリョフ共同監督)
トロイカ(1963年 70ミリ映画 ロマン・チホミーロフ監督)
ハムレット(1964年 グリゴーリー・コージンツェフ監督)
鬼戦車T-34(1964年 ニキータ・クリヒン/レオニード・メナケル共同監督)
眠れる森の美女(1964年 70ミリ・バレエ映画 アッポリナリ・ドゥードコ監督)
父と子と(1964 ミハイル・エルショフ監督)
オーロラ号の砲撃(1965年 ユーリー・ビシンスキー監督)
再生の街(1965年 ウラジミル・ヴェンゲロフ監督)
カテリーナ・イズマイロワ(1966年 オペラ映画 ミハイル・シャピロ監督)
七番目の道づれ(1967年 グリゴーリー・アローノフ/アレクセイ・ゲルマン)
白鳥の湖(1969年 70ミリ・バレエ映画 A・ドゥドコ/K・セルゲーエフ共同監督)
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ソ連人工衛星宇宙征服(1957年 レニングラード文化映画製作所 パーヴェル・クルシャンツェフ監督)
火を噴く惑星(1961年 レニングラード科学普及映画スタジオ パーヴェル・クルシャンツェフ監督)
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ソヴェート映画史−七つの時代
服部美術館・特別展「レンフィルムの映画を描く」
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